〈翻訳〉ニック・ランド「暗黒啓蒙」第一部

〈本記事は、ニック・ランド(Nick Land, 1962~)の評論「暗黒啓蒙(dark enlightenment)」(出典:http://www.thedarkenlightenment.com/the-dark-enlightenment-by-nick-land/)(2012年)第一部の翻訳である。ニック・ランドは、昨今千葉雅也氏、仲山ひふみ氏、そして木澤佐登志氏によって紹介されている加速主義の内、右派加速主義と呼ばれる思潮の騎手であり、その「新反動主義」という立場によってオルタナ右翼に多大な影響を与えている哲学者・作家・ブロガーである。本論稿の後半部(第4部c以降)は五井健太郎氏によって解題付きで邦訳されており、『現代思想』2019年5月号(青土社刊)に収録されている。ここでは、その前半部の翻訳をここに漸次掲載することとする。〉


暗黒啓蒙


ニック・ランド


第一部  新反動主義者達は離脱(exit)へと向かう

 啓蒙とは、単に一つの状態であるのみならず、一つの出来事であり、プロセスである。18世紀北ヨーロッパに集中している歴史的なエピソードが示すように、それは近代性の起源と本質を捉えるために、その「真の名」の主要な候補である(「ルネッサンス」や「産業革命」、その他)。「啓蒙」と「進歩的啓蒙」の間には掴み所の無い差異だけがある、何故ならば解明(illumination)には時間がかかるから−そして照明は自己培養する、何故ならば啓蒙とは自己確証であり、その暴露は「自明」であるから、それから、逆行的或いは反動的な「暗黒啓蒙」は内在的(intrinsic)矛盾へとほぼ達しているから。啓蒙されるということは、この歴史的な意味において、導きの光を再認することであり、それから、それを追跡することである。


 暗黒の諸時代があり、その後啓蒙が来たった。明らかに、前進は自己証明されてきたし、それは単に改良のみならず、一つのモデルをもたらしてきた。しかのみならず、ルネッサンスと異なり、啓蒙は喪われたものを呼び起こす、或いは回帰の魅力を強調する必要がない。啓蒙を原基的に承認することは既にミニチュアのホイッグ史観なのである。啓蒙された或る諸々の真理が自明であると一旦分かったならば、後に戻ることは出来ず、保守主義は機先を制されて逆説の判決を下される−そのように運命付けられる。F.A.ハイエク(F.A.Hayek)は、自身のことを保守主義者だと述べることを厭うた人物であるが、有名なことに、その代わりとして「オールド・ホイッグ」という語に落ち着いた。「オールド・ホイッグ」というのは、−「古典的自由主義者」(もっと言えば、より一層深く憂鬱な「生き残り(remnant)」)のように−進歩に昔の面影がないことを受け入れるのである。一箇の反動的進歩主義者でないのなら、オールド・ホイッグとは何でありうるだろうか?そして、一体全体それは何だというのだろうか?


 無論、沢山の人々が、反動的近代主義がどのようなものとして映るのかを既に自ら知っていると考えているし、1930年代へと回帰する近年の崩壊の中にあって、そうした人々の関心は増大の一途を辿りそうである。基本的なこととして、少なくともその進歩的な語法においては、それは「F」ワードが向けられるものである。この状況下において民主主義から飛び去ることは、全く完全に次のことに合致する。すなわち、そのことが、単なる先祖返り、すなわち悲惨な反復の確証として映ることによって、特定の認識をかわすという期待に。


 それでもなお、何かが起こっているのであり、そしてそれは−少なくとも部分的には−他の何かである。一つの里程標は、「カト・アンバウンド(Cato Unbound)」にて(パトリ・フリードマン(Patri Friedman)とピーター・ティール(Peter Thiel)を含む)リバタリアン思想家達の間で交わされた2009年4月の議論であった。そこでは、民主主義政治の方向と諸々の可能性に対する幻滅が常ならぬ単刀直入さで表明されたのである。ティールは、一連の趨勢をあからさまに次のように纏めた。「私は、自由と民主主義が両立するとは最早信じない。」


 2011年4月、マイケル・リンドは「サロン(Salon)」に民主主義からの突き返しを投稿した。彼は悪臭に満ち満ちた塵芥を掘り返し、そして次のように結論した。


リバタリアンや古典的自由主義者達が民主主義を恐れるのは、正当だと見なされる。リバタリアニズムは実際、民主主義と両立不可能である。大多数のリバタリアン達は、二者のうち自分達がどちらを好むかを明瞭にしてきた。決するべきものであり続けている唯一の問いは、誰であれリバタリアンに注意を払うべきなのは何故なのか、ということだ。


 リンドと「新反動主義者達」は、次の点において概ね同意しているように見える。すなわち、民主主義は単にシステムであるのではなく(或いは、ですらなく)、寧ろベクトルであり、紛れのない方向を持っている、という点において。民主主義と「進歩的民主主義」は同義であり、そして両者は国家の拡張と識別不可能なのである。「極右」政府が稀なことにこの過程を束の間阻んだとしても、この逆戻りは民主主義の諸可能性のなす境界の範囲外にある。選挙で勝利することは圧倒的なまでに買収選挙かどうかの問題であり、そして、社会の情報器官(教育とメディア)は有権者と同程度に賄賂に抗するものではないために、倹しい政治家は単に無能な政治家であるのであり、そして、ダーウィニズムの民主主義版は遺伝子のプールからこのような不適合者をさっさと排除してしまう。これこそが、左派が称揚し、エスタブリッシュメント右派が不機嫌そうに受け入れ、そしてリバタリアン右派が詮無くも罵ってきた現実なのだ。しかしますます、リバタリアン達は、誰かが「(彼等に)注意を払(っている)」かどうか気にしないようになってきた−彼等は完全に別のことを探し続けている。すなわち、離脱(exit)、を。


 リバタリアンの声(voice)が民主主義の中でかき消されており、そしてリンドの言うようにそうなるべきなのは、構造的に不可避なのだ。更に一層、リバタリアン達は同意しようとする。「声」とは、民主主義の歴史的に支配的な、ルソー主義的調子において、民主主義それ自体である。それは民意の表象として国家を形成するのであり、大声で自分の意見を聞かせることはより多くの政治を意味する。政治的にエンパワーされた人々の大規模な自己表現としての投票することが世界を飲み込む悪夢であるとしたら、騒ぎに加わることは何にもならない。平等−対−自由などよりも遙かに、声−対−離脱は前途有望な二者択一であり、リバタリアン達は声無き飛び去りの方を選びつつある。パトリ・フリードマンはこう述べている。「思えらく、自由な離脱は、我々がそれを唯一の〈普遍的人権〉と呼んできたほどに重要である。」


 ハードコアな新反動主義者達にとって、民主主義は単に凶運に取り憑かれているのではなく、凶運それ自体である。それから逃避することは、究極の命令へと接近する。かくの如き反−政治を推し進める地下の趨勢は、直ちに気付かれるようにホッブズ主義的なものであり、首尾一貫した暗黒啓蒙であり、人民の表現へと向かういかなるルソー主義的熱狂をその端緒から欠いているものである。何れにせよ、政治的に目覚めた大衆を喚き立てる非理性的な暴徒とみるようになっているので、この趨勢は民主化の力動学を根本的に退化したものと考える。ここで、この根本的な退化とは、諸々の私的な悪徳、怨恨、欠陥を、集団的犯罪性や包括的で社会的な腐敗に到るまで体系的に強化して悪化させることを指す。民主的な政治家と有権者は、相互に刺激し合う循環によって結び合っている。この循環において、双方は、より一層恥知らずな野次の極みへと、跳ね回るカニバリズムへと相手を駆り立てるのであり、遂には叫ぶことの唯一の代わりが喰われることにまで至るのだ。


 進歩的啓蒙が政治的理想を見るところに、暗黒啓蒙は食欲を見る。政府が人民を素材にして作られていること、そして、政府がよく食べるであろうことを、暗黒啓蒙は受け入れる。暗黒啓蒙は、この期待を道理に適って可能な限り遅めることによって、凶暴で、破滅的で、大食いな放蕩を文明に被らせないようにだけ、ただただ努める。トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)からハンス=ヘルマン・ホッペ(Hans-Hermann Hoppe)へと至るまで、そしてそれ以降も、暗黒啓蒙は次のように尋ねる。主権が社会を貪り食うことを如何にして防ぎうるのか−或いは少なくとも思いとどまらせうるのか?暗黒啓蒙は、この問題に対する民主主義的回答が、せいぜい嗤うべきものであると一貫して分かっている。


 ホッペは、アナルコ・キャピタリズム的「私法社会」を提唱するが、王制と民主制の間で彼は躊躇することがない(そして彼の議論は厳密にホッブズ主義的である)。


世襲独占者として、王は領土と支配下の人民を自身の個人的な財産と見なし、この「財産」の独占的搾取に専念する。民主制下において、独占と独占的搾取は消え去っていない。寧ろ、起こっているのは次のことである。国を自らの私有財産と見なす王と貴族階級に代わって、一時的で取り換え可能な管理人(caretaker)が国を独占する任に置かれる。管理人は国を我が物としないが、その任にある限り、彼は彼と彼が庇護する者達の都合のためにその国を使用することを許されている。彼はその国の現在の使用−使用権(usufruct)−を我が物としているが、その資本の蓄積を我が物としているのではない。このことは、搾取を排除しはしない。反対に、そのことによって、搾取は計算の甘いものとなり、そして資本の蓄積を僅かにか、或いは少しも考慮しないで遂行されることとなる。搾取は短絡的となり、資本の消費は体系的に促進されることとなろう。


 複数政党制の民主主義システムによって一時的な権威でもってでっち上げられた政治的代理人は、最大限に可能的な迅速さと包括性によって社会を略奪することに対して圧倒的な(そして明らかに抵抗不可能な)インセンティヴを持つ。彼等が盗むことを怠る−或いは、「卓上に置いたままにする」−ものは何でも、政治的後継者達によって相続されるのに適当なものである。この政治的後継者達は、単に係累がないのみならず、現に対立している人々であり、従って自分達の敵に損害を与えるためにあらゆる入手可能なリソースを利用してと予想されうる人々である。置き去りにされるものは何であれ、あなたの敵の手中にある武器になるのだ。この時、最善の策は、盗まれうるものを破壊することである。民主主義的政治家のパースペクティヴからすれば、(彼等自身の)徒党へと直接に充当することも帰属させることもできない社会的な財とは、端的に無駄であり、数の外なのである。他方で、最も嘆かわしい社会的不幸でさえも−それが前任者の行政に割り当てうるものであるか、後任者へと延期されうるものである限りは−合理的計算の中ではあからさまな恩恵として現れる。長期的な技術−経済的改善、そしてそれに関連した、古い(ホイッグ的な)意味における社会的進歩を構成した文化資本の集積は、誰の政治的関心のうちにもない。一旦民主主義が隆盛を迎えれば、それらは絶滅の直接的脅威に直面するのである。


 文明というのは、一つのプロセスとして、時間選好を逓減させること(或いは、未来と比較して現在への関心を断つこと)と区別不可能である。民主主義は、理論と明白な歴史的事実の双方において、痙攣的な餌の奪い合いに至るまで時間選好を強調するのである。従って民主主義は、(それが時に帰着するところの)残忍な野蛮かゾンビ・アポカリプス(zombie apocalypse)の内へと転落する即時の社会的腐敗とまではいかなくとも、文明の正確な否定にありうべき限りにおいて近接している。民主主義的ウイルスが社会の至る所で燃え上がるとき、竹を割ったようでいて、思慮深い、人間投資と産業投資の苦心の末の集積である習慣と態度は、不毛で、乱痴気騒ぎの消費者運動、財政的淫奔、そして「リアリティ番組」政治のサーカスによって取って代わられる。明日は別のチームに属しているかもしれない、だから今その全てを食べるのがベストである。


 ウィンストン・チャーチルは、新反動主義的なスタイルで「民主主義に反対する最良の議論とは、普通の有権者との5分間の会話である」と述べたが、「試されてきたあらゆる他の形式を除いては最悪の政府の形式である」と提案したことでより広く知られている。「OK、民主主義はしゃぶる(実際、それはマジで(really)しゃぶる)、だが他の選択肢は何だ?」ということを全く認めずとも、その含意は明らかである。この感覚の一般的な基調は近代の保守主義者達にとって魅力的である。何故ならば、それが共鳴するのは、情け容赦の無い文明の退歩に対する、彼等の捻くれていて醒め切った受け容れ、そしてそれと関連して、不味いが除き難い或るデフォルトの社会的取り決めとして資本主義を知的に気遣うことだからである。この気遣いは、全てのカタストロフィックな、或いは単に実行不可能な選択肢が破棄されてしまった後にも残るものである。市場経済とは、この理解において、政治的に荒廃した世界の廃墟の只中において自分で自分を縫い合わせていく自然発生的な生き残り戦略以上のものではない。事態は恐らく永遠に悪くなっていくだけだろう。そしてそれが続く。


 ところで、別の選択肢とは何だろうか(一例では、1930年代を通じて適当な候補となる点は確かになかった)。「21世紀ポスト民衆主義的社会(21st-century post-demotist society)をあなたは想像できるか?東欧が自らを共産主義から抜け出していると見ているのと同様に、自らを民主主義から抜け出していると見た者は?」新反動主義の最高位のシスの暗黒卿(Sith Lord)、メンシウス・モールドバグ(Mencius Moldbug)はこのように尋ねる。「宜しい、私達の一員だ。」


 モールドバグの形式的影響はオーストロ・リバタリアン的であるが、それを全く超えている。彼の説明によれば、


…リバタリアンは、彼等の戦いが勝利を収めそして勝利を収め続けている世界の現実主義的な描像を提示することはできない。彼等は、〈国家〉の自然な下り坂が伸びるであろう世界を推し進めるという道を探す羽目に陥り、坂を後援する。この展望はシジフォスのものであり、そして、それが何故あまりに少ない支援者しか惹き付けないのかは頷けるものである。


彼の新反動への覚醒は、主権は除去したり、捕縛したり、制御することができないという(ホッブズ主義的)認識と共に起こる。アナルコ・キャピタリズム的ユートピアはSFの外で凝縮することが決して出来ず、分割された権力は粉砕されたターミネーターのように合流しに戻り、そして政体は、至高の命令的権力が許すだけの現実的権限をまさに持っている。国家がどこにも行っていないのは−国家を動かす者達にとって−諦めるには余りにも価値があるからであり、そして社会において主権が濃縮され具体化したものとして、誰もそれをどうにかすることができないのである。モールドバグの議論によれば、もし国家が排除されえないにしても、少なくとも国家が民主主義(もっと言えば体系的で退化した悪い政府)から癒されることは可能であり、そして、そうする道は国家を形式化する(formalize)ことである。これが、彼が「新官房学(neo-cameralism)」と彼が呼ぶアプローチだ。


新官房学者にとって、国家は国を我が物にするビジネスである。他のあらゆる巨大なビジネスのように、論理的なオーナーシップをそれぞれが国益の一欠片をもたらす取引可能な株式に分割することによって、国家は運営されるべきである。(健全な経営の国家は非常に儲かる。)それぞれの株式は一票を有し、そして株主は役員会を選出する。彼等役員会は、経営者達を雇用したりクビにしたりする。
このビジネスの顧客はそこの住人である。黒字経営の新官房学的国家は、あらゆるビジネスのように、能率的かつ効果的にその顧客にサービスを提供する。失政は経営不振に等しい(Misgoverment is mismanagement)。


 第一に、国家が市民に「属する」という民主主義の神話を押しつぶすことが本質的である。新官房学の要点は、主権的権力において実際のステークホルダーを買収することであり、大衆の解放について感傷的な嘘を永続させることではない。国家のオーナーシップが形式的にその現在の統治者の手の中に移されるのでない限り、新官房への移行は単に起こらないであろうし、権力は影の中にとどまるであろうし、民主主義的な茶番狂言は続くであろう。


 そして、第二に、支配階級はもっともらしく同定されるべきである。社会分析のマルクス主義的諸原理と正反対に、この支配階級は「資本主義的ブルジョワジー」ではないという点に直ちに注意するべきである。論理的に言えば、それは不可能である。実業階級(business class)の権力は、金銭を基準にして既に明瞭に形式化されている。だから、資本と政治権力の同一化は冗長である。寧ろ問うべきは、資本家が政治的な支持のために金を支払うのは何故かであり、これらの支持が潜在的にどのくらい価値をもつかであり、それらを聞き入れることの権限はどのように分配されるのか、である。このことによって、道徳的苛立ちを最小限にしたままで、次のことが要請される。すなわち、政治的賄賂(「ロビイング」)の社会的眺望全体を正確にマッピングすることが、そして、このような賄賂によってアクセスされる行政上の特権、立法上の特権、司法上の特権、メディアの特権、そして学問的な特権は代替可能な株式に転換されることが要請される。有権者が贈賄するに値する限り、彼等をこの計算から全く締め出してしまうには及ばないが、彼等に割り当てられる主権が適切な嘲笑を以て見積もられるであろう。これを実行することは畢竟、民主的政策の真に支配的な審級であるところの支配的存在をマッピングすることである。モールドバグはこの支配的存在をカテドラルと呼ぶ。


 第三に、政治的権力の形式化によって、効果的な統治の可能性が開ける。再び、民主的腐敗の宇宙は、統治企業(gov-corp)における(自由に移転可能な)株式保有へと転換される。CEOの任命から始まることによって、国家のオーナーは理性的な企業的統治を先導することができる。あらゆるビジネスと同様に、ここで国益は長期的な株主価値の最大化として正確に形式化される。最早、住民(顧客)は政治に対して何一つ関心を持たなくていい。実際、そうすることは半ば犯罪的な性癖を暴露することになるだろう。統治企業が税(主権使用料(sovereign rent))に見合うだけの価値を届けてくれない場合、彼等住民(顧客は)は統治企業のカスタマーサービス機能に通報しうるし、お望みならば何処か他所で贔屓を得ることもできる。統治企業は能率的で、無力的で、活気のある、クリーンで、安全な国を経営することに専念するようになるだろう。この国は、顧客を惹きつける類のものである。声は要らない、自由な離脱を(No voice, free exit)。


…完全なる新官房学的アプローチはまだ一度も試みられたことがないが、このアプローチに最も近い歴史的等価物は、フリードリヒ大王によって代表される啓蒙専制君主という18世紀の伝統、そして、香港、シンガポール、ドバイなどイギリス帝国の残片のうちに見られる21世紀の非民主主義的伝統である。これらの国家は、無意味な民主主義が全く無く、市民に非常に高い質のサービスを提供しているように見える。市民の犯罪は最小限であり、彼等は高レベルの個人的経済的自由を有している。彼等は相当に繁栄する傾向にある。政治的自由という点においてのみ彼等は弱いのであるが、政府が安定的で効果的である時、政治的自由は定義上重要ではない。


 ヨーロッパの古典古代において、民主主義は、周期的な政治的発展のよく知られた一つの相として認識されており、本性として根本的に頽廃的であって、僭主政治に滑り落ちる前触れであった。今日では、この古典的理解は全くもって喪われており、グローバル民主主義イデオロギーに取って代わられている。このイデオロギーは、批判的な自己反省を全く欠いており、説得力のある社会的−科学的テーゼとして、或いは自然発生的な人民の熱望としてですらなく、寧ろ特定の、歴史的に同定しうる類の宗教的信経として主張されているのである。


私が〈普遍主義〉と呼ぶところの広く受け入れられた伝統は、非有神論的なキリスト教の教派である。この同じ伝統に当てられた現在の他のラベルとして、多かれ少なかれ同義であるが、進歩主義、多文化主義、リベラリズム、ヒューマニズム、左翼主義、ポリティカル・コレクトネスなどがある。…〈普遍主義〉はカルヴァン派の路線にあるキリスト教の支配的で近代的な分枝であり、(イギリスの)非国教徒やピューリタン的伝統に端を発し、ユニテリアン運動、超越主義運動、進歩主義運動を通して進展してきた。この荊の絡まりのような祖先のもつれはまた、名前を上げるに相応しいがそのキリスト教的な祖先が単に隠されていた幾らかの横枝を含んでいる。その横枝とは、ルソー主義的ライシズム、ベンサムの功利主義、ユダヤ教改革派、コントの実証主義、ドイツ観念論、マルクスの科学的社会主義、サルトルの実存主義、ハイデガーのポストモダニズム、等々、等々、等々…私の見解では、〈普遍主義〉は権力の神秘的崇拝として最もよく記述される。〈国家〉無しの〈普遍主義〉を想像することは、蚊無しのマラリアを想像するのと同様に困難である。…ポイントとなるのは次のことである。すなわち、お望みの通りに何と呼称してもらっても構わないが、この事象が、少なく見積もって200年に、もっと言えば恐らくは500年に亘って存在しているということである。それは、基礎的に宗教改革そのものである。…そしてまさに、それに歩み寄り、それが悪であると告発することは、少額請求裁判所でシュブ=ニグラス(Shub-Niggurath)を告訴することに殆ど等しいように思われる。


 情け容赦の無い、全体化する国家の拡大によって性格付けられるような我々の現代的苦境の現出、見せかけの実定的な「人権」(強制的な官僚制によって支援された他者のリソースについての諸々の主張)の増殖、政治化されたカネ、無謀で福音主義的な「民主主義のための戦争」、そして普遍主義のドグマを守護するために配置された包括的思想統制(これは政府のPR部署へと科学を貶めることによって伴って起こる)、これらのことを理解するためには、モールドバグが行ったように、マサチューセッツがどのようにして世界を征服するに至ったのかを問う必要がある。年々、健全な政府の国際的理想が、ニューイングランド大学の「苦情研究」部門によって定められる標準へと、より一層密接に、かつ厳密に近似している。これは喚く者達と平等主義者達の神聖なる摂理であるが、惑星的な目的論にまで高められ、〈大聖堂〉(the Cathedral)の支配として強化されている。


 〈大聖堂〉は、我々が知っていた全てのものをその聖歌に代えてきた。(当記事の「自由に付き纏う者(Liberty-clinger)」によってコメント#1に纏められた)アメリカ建国の父達が表明した懸念をまさに考えてみよう。


民主主義とは、暴徒の規則以外の何物でもない。そこでは、人民の51%が残りの49%の諸権利を奪いかねないのである。−トマス・ジェファーソン

民主主義とは、何を昼食にするか決めるために投票する二頭の狼と一頭の仔羊である。自由とは、投票に抗議する重武装の仔羊のことである!−ベンジャミン・フランクリン

民主主義は長く続かないであろう。それは自らを浪費し、消耗させ、殺害する。自殺しなかった民主主義は未だ嘗てなかった。−ジョン・アダムス

諸々の民主制は、今まで動乱と闘争のスペクタクルであった。それらは、今まで個人の安全や財産権と相容れないものと見られてきた。そして、これらは今まで一般に、非業の死を遂げてきたのと同様に、短命であった。−ジェイムズ・マディソン

我々は〈共和主義政府〉である、〈真の自由〉は専制や民主制の極限においては決して見出されない…純粋な民主制は、万が一実行できるとしたら、最も完全な政府であろうということが述べられてきた。経験が教えてきたところによれば、これよりも虚偽の立場というものはない。人民自身が熟慮していた古の諸々の民主制は、政府の良き特徴を一つも有していなかった。それらの真の性格は暴政であった…−アレクサンダー・ハミルトン


自分で歩いて投票することについて(そしてモールドバグの煌めく天才について)より詳しくは、次へ…


加筆注記(3月7日)


 上記の「ベンジャミン・フランクリン」引用の出典を信用するなかれ。バリー・ポピク(Barry Popik)によれば、この言葉は恐らく、1992年にジェイムズ・ボヴァード(James Bovard)によってでっち上げられたものである。(ボヴァードは他の所で次のように記している。「政治的思考において、民主主義と自由を同等視すること以上に危険な誤謬は殆どない。」)


〈本記事は投げ銭方式です。〉


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