「欲望」についての走り書き的覚書−「欲望とは〈他者〉の欲望である」


 「欲望とは〈他者〉の欲望である」という有名な言葉がある。
 これはフランスの精神分析家ジャック・ラカンの言葉である。「他者」という言葉に山括弧を付けているのは、それが元のフランス語において大文字(l’Autre)だからである。つまり、それは単に「他人」を指しているのではなく、それをも含めた「他なるもの」、すなわち自己ではないものを指していると考えられる。ラカン派の精神分析においては、この〈他者〉は概ね「言葉」のことを指すようである。ここでは、この言葉の「意味」を敢えて自分なりに考えてみたい。


 「自分の言葉で」という文句は巷間よく使われるが、考えてみればすぐに分かるように、「言葉」というのは決して自分固有のものではない。当たり前のようだが、それは自分で拵えたものではない。「言葉」そのものは知らぬ内に、親などから話しかけられることによって習得したものである。正確に言えば、「習得した」という言い方もおかしいだろう。「言葉」そのものは、例えば我々が学校で国語や英語の勉強をするようにして身に付いたものではないからである。それは、気が付いた時にはもう勝手に身に付いていたものである。言葉というものは、自己が「常に既に」その中に入れられているような類のものである。のみならずその気付きすらまた、当の「言葉」が無ければ凡そ有り得ないようなものでもある(言葉なくして常に既に自らが言葉の世界に生きていることを表すことなど原理的に出来ないだろう。まずその事態を理解するための「意味」という範疇を持たない筈である)。このような意味において、言葉という〈他者〉は、自己の奥深くに入り込んでいるばかりか、自己そのものでもある。この〈他者〉を離れて、我々は自己というものを考えることすら出来ないのである。


 この「言葉」を、知らぬ内に私に授けたのは例えば親などの他人に他ならないことは明白である。そして、この「言葉」の授けが我々の幼少期に行われていることもまた確言出来る。人間は社会的動物であると言われるが、親などの他人もまた、知らぬ間に私の周りに存在しており、様々な形で私を養育してきたのである。もし人間が誰も居ない所で育ったとすれば、私は今あるような人間に成り得たであろうか。これは非常に困難な想定である。例えば、幾多もの事例が報告されている狼少年の事例において、野生児達は人間であるにも拘らず人語を解さず、また最後まで殆ど習得出来なかったという。この話の裏を返せば、人間は幼少期に他人から「言葉」を授けられることがなければ、(例え本能的な鳴き声のように何かしらの「単語」を口にすることなどは有り得たにせよ)終生「言葉」の世界に生きることはないということだろう。つまり我々は、他人という具体的な他者と、その他人の発する「言葉」という抽象的な〈他者〉の双方に囲繞されることによって初めて、「自分」足り得ると言って良い。


 だとすれば自分の欲望もまた、そのような〈他者〉を介さずして有り得ないものである。つまり、我々は(現実の他人であれ「言葉」であれ)何らかの〈他者〉の欲望を自分の中にインストールしているのでなければ自身の欲望なるものを持つことはない。しかし何故、〈他者〉それ自体ではなくて、〈他者〉の「欲望」なのだろうか。

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