加速する「暗黒」と人間の「影」


再び、「加速」について


 日月が天を巡る速さは古より変わらねども、人の世の動き行く速さは年月の経るにつれていよいよ増しつつあるように感じる。これも偏にインターネットなるものが、距離を越え間髪も入れずに吾々同士を繋ぎ合わせているからであろう。我々は最早「報せを待つ」ことを知らぬと言ってもよい。総ての情報は今や全地球を覆い尽くすようになった電光石火の回線によって瞬時に伝わってしまうのである。経済の根幹を成す無数の貨幣もまた、単なる数値や関数として地球の裏側へと瞬く間に運ばれている。技術の加速度的な進歩は、人間の利便性を単に高めたのではない。それは、人間の社会自体の速度を変えているのである。吾々の文明は、日々加速している。プロメテウスの火は遂に世界を覆い尽くして尚も、加速しているのである。嗚呼何と素晴らしいことであろうか。


 この世界史的な文明の加速がその加速自体の中に自閉する事態こそ、私がこの『晦溟手帖』の巻頭を飾る記事において論じたものだった(「「中断」する生と加速する世界––『ゲンロン0 観光客の哲学』『勉強の哲学 来たるべきバカのために』『中動態の世界 意志と責任の考古学』に寄せて」参照)。ここでは言うなれば「この道しかない」ものとしての加速が、如何にして人間が自ら主体性を確立する道を奪っていくのかを問題にした。


 採り上げた三冊の人文書は何れも人文学にルーツを持つ現代の代表的な知識人が物したものであるが、そこで共通して掛け金とされているように読み取れるのは、絶対的でない、曖昧な他者(より原理的に言えば他性)との繋がりを動的に保つものとしての「中断」であった。この「中断」が、理性的で自律的な主体性の不可能性とその観念としての暴力性を超えて尚、別なる主体性を担保するために提出されたものであることは贅言を要しない。その知恵は十分に諾うべきものであると同時に、私には、先述した加速がこの「中断」を最早不可能にしてしまうものであるようにも映ったのである。このように断じてしまえば元も子もないが、現今の世界の体制は、「何かの加速」ではなくただ加速そのものが純化されたものとしての「加速としての加速」であり、これは凡ゆる足場を瞬時に破壊してゆくように私には考えられたのである。そのような暴流の中では、中断する為の仮の足場を立てる余裕も無いのではないか、寧ろ人々は一層の事、絶対的で超越的な足場を断定的に定めることにこそ固執するのではないか。そうした人々の内でも秀れた者は自らの希いと思惑が愚かであると解っていても、盲目的断定に次ぐ盲目的断定の中でこそ、「この道しかない」加速としての加速の中を直走るのではないか。先の論者達のようにバラバラで断片的であるような生を言祝ぐことこそ、「弱さ」を認めるかのように見えながら、実の所は一握りの人々にのみ許されたる一種の贅沢であるのではないか−


−かの私の小文にはこのようなことを書いているし、今読み返してみて改めて噛み締めるのである。「加速主義」という思想潮流が、数年前に喧伝され、幾つかの紹介と、論書と、翻訳が出たことをも思い返す。それは、資本主義体制の加速、とりわけ技術的な加速を通じて、その加速の中から未来へと、つまりは資本主義体制の外部へと超出することを唱える一派である。私には、歴史的現実が彼等の述べ伝うように外部を指し示しているのかは未だ判らない(しかしきっとこのことは彼等にとってもまた飽くまで「希望」であるに相違ないのではないか。ところで、彼等の内に「盲目的断定」なるものは存するのであろうか)。兎も角もそこには、「この道しかない」資本主義によって隅から隅まで被覆された現実の中にあっても「未来」なるもののヴィジョンを何とか取り戻そうとする知識人達の「希望」が光っていると思う。この希望は、絶望的な状況下にあっても知識人達が「構造」を把握する知者足り続けて自らの知を一つの光輝ある未来像へと結晶化させんとする努力によって成るものだろう。


「暗黒」の立場の台頭


 しかしながら、その希望は余りにも暴威を振るう加速の中にあって、既にして暗黒の内に這入り込んでいるのではないだろうか。余りにも眩い光線が眼の奥を焼き切って潰すが如く、世界の技術的な加速は人間の知性を却って昏くするのではないだろうか。そうして、不安に駆られ続ける人々は寧ろ、自らの主体性を手放してまでも闇雲な断定に縋るようになるのではないか。確かにそれは、反省的な思考を多く持つ者から見れば、単に易きに流れて「愚かさ」の中に安住することかも知れぬ。「愚かさ」にもそれなりの「合理的」なる理由があるとすれば、その理由をまさに「合理的」に示す別なる〈知〉が有り得るだろう。技術の加速が人間の主体的な自覚とは無関係にこの別なる〈知〉を営々と組み上げていることは、各種の実験や統計の飛躍的な進歩からして明らかなことである。そして、このような別なる〈知〉が「愚かさ」の合理的理由を示すのみならず、その「愚かさ」を「合理的」に弁明し始めるに至るとすれば、どうなるだろうか……

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