人間の愚かさについての哲学的序説−「愚かさ」を理解するとはどういうことか

 人間は愚かだ−今までもしばしばそう言われてきたし、これからもしばしばそう言われ続けるであろう。然り、殆ど多くの場合、人間は愚かだ。我々は往々にして、見通しが利かず、判断を誤るし、思い込みや謬見、或いは短絡的な感情に囚われ、放埓や粗暴に走る。それは事実である。しかしこれほど先進的な文明の中に生きる我々ですら尚もそうだとすれば、人類は文明の誕生以来ずっと知恵を追い求めてきたはずであるのに、尚も愚かしいままであるということになる。我々は実際にいつでも過ちうるし、「人間は愚かだ」ということはずっと言われてきたのだから、この愚かさについて考えること程重要なことはないように思われる。これから私が考えたいのは、この「愚かさ」とは何か、ということだ。

 まず一般に、文明の歴史は知恵の探求の歴史であり、それ自体が「知」の歴史でもある。
 文明が諸々の事象について「知」を広げ、深めてきたことは疑いないだろう。進歩史観を取らずとも、歴史を通じて大方は知の情報量は増加していると言える。勿論、滅亡したインダス文明、或いは破壊され焼失したアレクサンドリア図書館のように、人類の知は幾たびにも亘って大規模な喪失を経てきている。それでも尚、灰燼から人間は立ち上がり、拾えるものを拾い集め、度々の情報爆発を引き起こしながら知を積み重ねてきた。

 それと並行して重要なことがある。「知」一般について、つまりは「知」とは何かということについての探求である。それは、狭くは判断的な悟性、広くは推論的・論証的な理性から、直観的な理性(ヌース)までを含む「ロゴス」の探求であった。範囲を更に拡げるならば、ロゴス以前の直覚知ないし直観知もまた何らかの意味で「知」である。古代より文明は、常に知と共にあったと言えよう。ヤスパースの言う「枢軸時代」の如く、文明の誕生と成熟の或る時期(具体的には紀元前500年前後、長く取れば紀元前800年から紀元前200年)において、諸事物についての知見の広まりが、「知」そのものについての、「知る」ということそのものについての知見の広まりへと深まったことは文明史的に決定的な出来事である。

 しかし、奇妙な話ではないか。人類はそのような輝かしい知の歴史を経て尚も愚かしいというのである。我々は、厖大な知の蓄積を有しながらも、尚も愚かしいというのである。このことは、そのような絢爛たる知が尚も人々に広まっていない故、もっと言えばその知を人々に伝えることが、すなわち啓蒙が、未だ足りていない故であろうか。或いは、人類が愚かさを脱し切るためには知に更なる改良が必要であるが未だその途上にしかない故に、であろうか。そうではなく、幾ら知を語り、知を身に付けたとしても人間が根源的に全く愚かしい存在だから、であろうか。このように考えれば人間は本性的に愚かな存在である、ということになる。もしそうだとして、これを極端な形で受け取れば、人間が築き上げたその知とやらがそもそも、愚かさの別の表現に過ぎないということもまた考えられ得る−しかしこのように考える時、「愚かさ」とはそもそも何か。またその「愚かさ」を理解するとはいかなることか。
 ともあれ、速断は禁物である。我々は自然に考えても、差し当たり大抵の場合、速断がまさに愚かさを呼び込む種となることを知っているからである。

ここから先は

7,148字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?