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看取りのドォーラ

愛する人に伝えたい。マイレガシー


豊富な事例。一人一人の人生のラストシーン、その死に方はこれまでの生き方が凝縮。各事例に立ち入り深く関わりたい衝動に担当ドォーラは駆られる。しかしケジメを付ける時を告げ、後は遺族に託す儀式が含まれており用意周到。
*特に印象に残る事例4つ。
①カソリック教徒で犯した罪で悔い改め切れぬ信者
②死の床に着いた時点で牧師にも関わらず神を見失い、誘導イメージで恩師牧師との再会を子供に戻り、夕暮れまでに告白し神はいつも心にある事を気付かされる牧師

③家族を愛し、隣人を愛した「おばちゃん」の念入りなレガシーの演出。*海で拾い集めたきれいで可愛らしいストーンでリースを作る。思い出の出来事とメッセージを添え書きしたカードを挟み部屋を飾る等。

④短時間の看取り。打合せなく動揺することなく、逝く人の思いに自然に寄り添い安らかな旅立ちを叶える。

⑤無神論者との気まずくなった 自分の表情が相手に読まれた時。

♦大きな学び、レガシープロジェクト。今自分が取り組んでいるのはまさに「私のレガシープロジェクト」なんだと教えられた。自分ができること、与えられた課題をやってみること。*振り返って見れば人それぞれれぞれ自分に与えられた、残された可能性をできるとこまでやってみる、取組むこと。

a.「玉川温泉闘病日誌」の著者
    ふじみ とむ氏/がん闘病の末
    30代半ばで亡くなる

b.「行き急ぐ」の著者磯辺一朗
/余命数ヶ月と宣告を受けながらも奇跡的生命力で現在も企業コンサルで貢献
b.「ガン緩和ケアの代替食事療法の試み」の著者山崎章郎氏は自らの体で治験に取組む。ホスピス医療の実践的先駆者の一人

c.文学者/芥川龍之介、高見順らの作品

d.看取りのドールと一緒にレガシーを遺す人々。
e.「ハンチングバック」の市川沙央
♦看取りのドーラの画期性。逝く人を看取る側がどのように、死のプロセスを踏まえ、残りの時を苦痛なく、安心して旅立たって頂くかということ以上に、もっと積極的に「逝く人の多くは自ら死を受入、あの世への旅立ちをプロデュース」を踏まえ。死に逝く者の自己決定権を一番に重んじ、最後の人生の振り返りの中で、何をしたいか、残したいかを事前に整理し、本人の希望をポジティブに叶えることにある。その計画立案/レガシープロジェクトの手助けをする専門職が、看取りのドォーラ。

♦スピリチュアルペインの解決例/牧師の神喪失と末期のスピリチュアルペインを「誘導イメージ法」で恩師と瞑想の中で再会し、相談したらどうか。と自らの課題(苦悩/スピリチュアルペイン)に取り組むよう促す。そして自ら解決に向かい答えを見出す。200の実践例から浮かび上がるアメリカ社会のドォーラ受容と医療福祉制度を知りたくなります。利用者は比較的裕福で家族に恵まれた人間関係の中間層ではないか。レガシープロジェクトに見る個人主義と家族の存在、絆が強く感じる事例。日本の看取りし、エンゼルケア24時間のホスピスケアとは異なる独自のレガシープロジェクト。日本の看取り、葬儀の忙しなさと貧しさが目立つのだが双方の実態はいかがだろうか。→井上理津子著「葬送の仕事師たち」によるとこれからの葬祭ビジネスの予測①一人葬送②簡略合理化③感動化の中に取り込めら れていくのだろうか。看取りのドォーラの事例は時間を かけ、本人、家族の皆が一緒に作り上げていく成功例で占られている。しかし全てではないだろう。そこを見たくなります。つまり事例200の成功例として約1割の事例を上げているのではないか。又はレガシープロジェクトには向かない人は最初からはぶかれているのだろう。エンドオブライフ(佐々涼子著のルポルタージュ)の医師の証言を思い起こす。「数少ないが解決困難な問に苦しむ小数の患者がいる」:その問題とは何か恐らく宗教家、チャプリンが対応すべき霊的/魂の苦しみの問いだと推測。ドォーラが対応するケースが有るという。ここで著者が上げる看取りのドォーラの理論的背景に触れておこう。

⚪エリクソンの統合と絶望の理論

*精神統一(禅の呼吸法導入)法

*回想法/誘導イメージ法

*ポジティブイメージ化:局所的苦痛・苦悩の緩和、解除

*リフレーミング

*認知行動療法

★課題
「エンドオブライフ」のうちホスピスケアを拒絶される事例や日本では「いのちの停車場」の医師の父親のケース(脳卒中後の疼痛、耐え難い痛みの発症)/安楽死又は自殺幇助の犯罪行為となる事例などのケースは含まれていない
*諸外国の事例と法の概要

*問題の難しさ/症状(苦しみの意味と医療の限界)最終判断者と家族の関係による決定の両極性。個別性/自己の選び/自己決定権

参考書籍

*久坂部 羊「人はどう死ぬのか」

*小澤武俊の書籍/「人生の意味が見つかるノート」等

*樋野興夫の書籍/「ガン哲学」等

*山崎章朗のスピリチュアルペインの理解と実例/「市民ホスピスへの道」
★要はドォーラの方法で何処まで接近できるか例えば西部邁、芥川龍之介、黒澤明、川端康成、三島由紀夫、江藤淳らの自殺の系譜。そこには身体的病とは別の通底する問と課題があるのではないか。又
看取りのドォーラと日本の社会、医療看護•介護ケアシステムの看取りの位置と考え方により認知度も異なってくるように思う。一般社団法人日本の看取り士会の看取りと同じ、触れる、抱く作法と儀式がある。利用者の頭部を自分の太腿に置き枕代わりにして背後から優しく包むように抱き抱える。このような作法の実例が出てくる。しかし、ドーラにはもっと多くの、多様な見送り方がある。何故か、一人ひとりの人生が唯一無二の存在であるとという原事実からきているから。故に事前準備を時間をかけ、本人の希望を聴く。つまり最期をどのように迎えたいか、悔恨となる秘密に向き合い、許しを請い、改悛、悔い改める場合もある。本人の希望を明らかにするプロセスがレガシープロジェクト。未整理であった本人の対自己、対家族の一人ひとりから(連れ合い、兄弟姉妹、従兄弟、祖父祖母友人)と隣人まで。そして神への祈りや大いなる自然への融合などメッセージを伝え、遺す。順序だて、計画書を作る。計画書どおりには全てはいかぬことは折込済み。実際は予想外の出来事が現成する。振り返ってこの国に住み、毎年150万以上の人が亡くなる。果たして自分を含め看取りのドーラのように、或いは「エンドオブライフ」/佐々涼子、「いのちの停車場」/南杏子、「ライオンのおやつ」/小川糸のルポルタージュや物語りの様に豊かな旅立つ事が出来るだろうか?看取りのドーラが成り立つアメリカ。後書に職業として安定収入が図れるという。アメリカ社会のどの層がこのサービスを受ける事が出来るのだろうか。この辺の構造的違いを踏まえなければ、看取りのドォーラはそのまま日本社会に浸透するのは難しいだろう。




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