プロレスの練習生だった話21

東京の団体では体重65キロ増加とベンチプレス60キロをクリアしなければ練習生になれなかった。

ベンチプレスはもう少しというところだったが体重はなんとも増えなかった。
前の団体では62キロまで増えたが今度は一人暮らしだったので食費もカツカツだった。
それでも他団体の選手をファイヤーマンズキャリーの体勢で担ぎスクワットをするくらいはできた。
バイトをという選択肢は当初、
プロレス入りを相談した元女子レスラーとしてフリーの成功者として名を馳せたあるレスラーの方から言われた言葉が頭をよぎり踏み出せないでいた。
プロレスラーはプロレスで稼いで行かなきゃいけない。
バイトや他の仕事をしながらするのはどうなのかなと思う。

この言葉をプロレス入りする前に教わっていたのでバイトをすることには慎重だった。

最も、その方の活躍していた時代と当時とではプロレスの人気や懐事情なんかは変わっており
プロレス冬の時代真っ只中だった。

その為中野の居酒屋で働いてみたり、シフトの融通がきくセキュリティーのバイトなんかもしてみた。

セキュリティーのバイトは大学生など同年代が多くまた、TBSのオールスター感謝祭のセキュリティースタッフとして赤坂マラソンなどの警備を担当した。
象を間近で見たり、安田大サーカスのクロちゃんが後ろを苦しそうに走っていたのを覚えている。

夜勤の警備も駒沢公園でした。
何かの催しで公園全体を警備するために夜間一人警備についた。
暇になったので古本屋で買ったこち亀を読んだりしていたら寒くて寝ていたり。
もっと安定した仕事に就けばよかったと今振り返ると思う。
当時、プロレスの練習生していますと伝えると怪訝な顔をされたり、なんですかそれ?と冷たくあしらわれた。
夢を追い求める人が多いが容易く受け入れてくれない街が東京なのだ。と知った。

2013年の冬は冷え込みが厳しく、東京でも雪が積もっていた。
その日、試合の始まる前に宣伝のため対戦カードの書かれたバラを配りに駅前に出た。
急に言われたので半袖に短パンで外に出た。
当然寒い。

道ゆく人はコートだったりダウンを着込んで寒さを凌いでいた。
そんな中をインディー団体のプロレスのビラを配る。
マッチ売りの少女の気分だった。
誰も受け取ってくれない。
ため息混じりだった。
それでも数人は憐れんで受け取ってくれた。

ある外国人の男性がこちらをじっと見つめ駆け寄ってきた。
怒られる?。と身構えた。
カタコトの日本語で彼はあなたとても寒そう。コートを貸してあげるから着なさい。
と言ってきた。
頭が混乱した。
今でならありがたく好意を受け取るが当時は謎のプライドがあったのか断ってしまった。
見ず知らずの人間にコートを貸してくれようとする優しさというのもまた脳裏に焼き付いている。
19歳の自分はなぜこうも尖っていたのか。

そして、その興行から代表の知り合いの人が練習生で参加するようになった。
今の自分と同じ28歳。野球などを経験していたと聞いた。
年上の後輩というのはなんとも厄介だなぁなんて思ったりもした。
その後輩は代表の知り合いということもありまた、歳上のため自分より団体に馴染んでいた。

ここでも面白くないと感じた。

馴染む馴染まないは自分の努力なのだが。

そしてこの日から大会の前に練習生がデビューするまでをお客さんに見てもらう合同練習の機会が設けられるようになった。

フリー参戦の選手がコーチ役として指導するという名目だった。
指導というよりやる内容を読み上げるだけのようだったが。ら

正直まだデビュー前なので本名を出したくなかったしお客さんの前に立つのは早いのではないかと思った。

スクワット腕立て腹筋を何百回もした。
前の団体ではしていたことだったので基礎体力はできた。

他の練習生はへばっていた。
後は受け身だったり。

難しかったのがブリッヂ返りというブリッヂの体制を崩してまたブリッヂをするものだった。

それもなんとかコツを掴んでできてしまった。
その日、お客さんのアンケートでは期待の練習生として、投票一位を記録することができた。

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