プロレスの練習生だった話24

静岡に戻ってきた。

帰る前夜にプロレス入りをサポートしてくれた元レスラーの方に連絡をした。
オーディションを受けました。残念ですが落ちてしまいました。と伝えた。
彼女からは労いと励ましとレスラーになって見返そう!
と応援の言葉が添えられていた。
当時の自分にはそれに応えるにはあまりに打ちひしがれていた。
もうプロレスは諦めようと思います。と返信した。
それ以降その方からの返信は途絶えた。
殊更に自分の価値も無くしてしまったような、自分には何も無くなってしまったなという思いがのしかかった。
暫くはバイトをするとこと、どこかの専門学校に通うために情報収集をすることを勧められた。

3ヶ月くらい何もせずに過ごした。
何もできない状態だった。
この頃、今でも好きだがWALKMANから流れる川村かおりのinsomnia、ガレージの中のwarriorといった曲を聴いていた。
自身のアイデンティティに悩む様を歌った曲は自分の中に刺さった
世界がもしも 崩れ落ちて 逃げるのならば ねぇ 僕はどこへ行けばいい Insomnia


ある日母から求人のフリーペーパーを渡された。
スポーツジムのインストラクターを市が運営しておりその募集だという。
飲食なども考えたが静岡の田舎にはそんなに店もなく知り合いにも会いたくなかったので避けた。
消去法としてやってみるか、プロレスで体づくりは多少なりとも理解がある。そんな形で面接に向かった。
プロレスをしておりその経験を活かしてインストラクターをしたい。
何が良かったのかわからないが採用してもらうことになった。
プールの監視と清掃、ジムの運営運用と接客。
そんな感じだった。
メンバーは近くの大学生やパートの人、社員は大学などでスポーツをがっつりしていた人たちだった。
馴染むのには時間はかかった。
プロレス界の上下関係からなる対人への礼儀は一般社会では時に固すぎると思われる。
自分としても大学生に対して遊んでばかりのやつらという偏見を持っていた。
そして心を閉ざしていた。

パートの人の中でプロレスが好きな方がいたのでその人とは時折プロレスの談義をしていたりした。

そんな周りに馴染めない自分でもフレンドリーに接してくれるスタッフに対して心を開くようになった。
そしてスイミングスクールのコーチ補助をしてみないか?と誘われた。
幼稚園児たちのクラスを担当していたが小学生クラスの子の中にはプロレスが好きな子がおり、風の噂で練習生だったことを知るとまるでヒーローを見るような目で話してきたこともあった。

ある美容院に行った時、担当してくれたスタッフの方と話す機会があった。
プロレスをしていたこと、東京では美容院くらいでしか雑談もしてこなかったこと、バーンアウトして無気力だったことなどそれとなく話した。

それでもその人は静かに聞いてくれた。
そしてプロレスの経験もいつか挑戦して良かったと思える時が来るよ。と話してくれた。
衝撃だった

あまり深く自分のことに対して話す事はなく周りは敵だとすら思っていた自分にとってその言葉や話を聞く姿勢が立ち直るきっかけになった。

自分も人の悩みなんかに寄り添える人間になりたい。そんな仕事はないかと考えていた。
どうやら心理学の分野がいいと思えてきた。
大学も検討したが反対された。
専門学校で探すしかなかった。
しかしあまりにも母数がなかった。
唯一大阪にあったのでオープンキャンパスを検討していた。

その頃でもプロレス界の動向は気にしていた。
そして、千葉の同期がデビューしたことや東京の団体では新しい練習生が増えたことなどを知った。
なにより、衝撃だったのは東京で唯一安心できる先輩だった亜利弥'さんががんを公表した事、それでも周年興行を開催する事を知った

どうしてあんないい人が、と考えた。
そして、何か自分にできる事はないのか
もう自分には手の届かない世界のはずなのに
恩人に対して何もできない悔しさがあった

もし、大阪に行くことになればプロレス団体があったはず、
自分の中の地図の目印はプロレスから答えを探す癖があるようだった

もし大阪の学校に行くことになればもう一度プロレスをやりたい
そんな気持ちが浮かんだ

大阪にはどんな団体があるのかあまり知らなかった。
学業は何より優先的に行いたいので寮に入ったりするのは厳しい
通いながらでもいいプロレスの世界へ戻りたい
そんな思いから団体を調べ、インディー団体のことを知った。
そしてある選手が気になった。
東京時代ジムのトレーナーにそんな細い体型でプロレスをしている人がいたら連れてきてよ
そんなふうに言われた悔しさもあったからか
小柄で華奢な体型ながらスピーディーな試合をする男子の選手を知った。
男子の選手に関心を持ったのは初めてだった。
ここでならもしかして自分の思い描くスタイルがかなうかもしれないと思った。
ただ、慎重だった。
この気持ちは一過性の熱なのかもしれない
もしこの気持ちを2年持っていたならそれは本当にやりたい事だと信じ挑戦しよう。と決めた。
そこから大阪の学校を受験し合格した。
それまでの間、バイトの隙間時間にジムに通いウエイトトレーニングやストレッチゾーンの隙間で柔軟体操に力を入れた。
膝を一度痛めているので特に体の柔軟性の必要性を意識した。

この頃、先の美容室とは違う美容院に通っていた。
15歳くらい年上の美容師さんにもそれまでの経緯、これからの夢を語らせてもらった。
そして、ヒールになりたかったんですよねと話すと
真っ直ぐな性格してるからリングの上で真逆になりたいのかもね。と笑っていた。
そして本名に直という漢字が使われていることに気づくと名前の通りの生き方してるね。と笑っていた。
実はこの人と前の美容師との出会いから美容師という職を選びたかった。
様々な事でそれを叶える事はできなかったがこの時代に二人の美容師の言葉にたくさん励まされ立ち直ることができた。

そして大阪への移住に向けて慌ただしく時間は過ぎた。
もし静岡に団体があれば、もう少し都会に生きていれば故郷を離れる事を選ばなかっただろう。
当時はゆっくり立ち止まり見つめることを知らなかった。自分の中の止まってしまった時間を早く前に進めなければと焦っていた。
今なら違う選択もあった。
しかしプロレスへの気持ちは抑えることができなかった。

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