プロレスの練習生だった話31

ナースからは
『できたらいいですね。』と返事が来た。

そして痛み止めをもらい飲んだ。
夜は痛くて眠れなかった。

朝になり担任が来た。
学校での事故なので着替えなどを頼んでいた。
正直事故の原因だと思っていたので顔も見たくはないといった感じにあしらった。

そしてわざわざ母親が大阪まで来てくれた。
母親の顔を見ると安心した。
年末に帰らずにいたので夏以来の再会だった。

母親には大阪でプロレスを再開していたことを伝えられなかった。
いえば反対するであろうから。

母親には大阪に数日自分の部屋に泊まってもらった。

そしてドクターから怪我の詳細を聞いた。
通常の骨折より治りにくい事、手術をしてボルトを入れた方がいいとのこと。手術をした際に神経に後遺症が残る可能性もあること。
絶望だった。
やっと戻った体力がまた落ちること、ボルトを入れた体で受け身を取れるのかそんなことを考えた。

また、手術をするにしてもさらに入院となると身の回りのことを腕一本でこなす必要があった。

それを考えると地元で療養が1番よかったと思う。

夜になり、団体の責任者の方にLINEを送り電話のアポをとった。

そして怪我をしたので地元に少し戻ります。
と伝えた。
わかった。また治ったら教えてと言われた。

次の日の朝、ドクターの回診があった。
そこでプロレスはまたできますか?と尋ねた。
医者からは
復帰はしない方がいい。
と返答があった。

そうか。
自分でもこの時すんなりと入ってきた。

全てがどうでも良くなった気がした。
年内のデビューを目指していたが、到底間に合わないと思っていたがもうプロレスができないのか。
この時に夢は死んだと感じた。

そして地元に戻り、地元の病院で手術を受けるつもりで受診した。
しかし、インフルエンザのパンデミックにより入院ができないときかされ、手術を受けずに自然に固定されるまで待つようにした。

ずっと実家におり少しばかり精神的に荒れた。
このままでは良くないと思い大阪に戻った。

大阪の病院ではリハビリを始めた。
かなり痛いらしかったがプロレスでの練習の痛みに比べればマシだと思った。

アバズレのバイトにもギブスをつけながら復帰したが休んでしまっていた分雇用の継続が打ち切られた。

そしてカフェでのバイトと学業に専念した。

怪我のことを知らない先輩からは練習に来ないことを叱られたが反論できる余裕もなく叱られるままだった。
そして責任者の方からまたプロレスしたくなったら連絡しておいでと告げられグループラインから抜けた。


ギブスも取れ日常生活もこなせるようになったが腕の痺れに悩まされるようになった。

それでもどうにか専門学生には珍しく論文に取り組んだ。
テーマは『みにくいアヒルの子から見るいじめの心理』
みにくいアヒルの子の話が好きだった。
コミュニティに馴染めずにいたものが最後に美しさの象徴でもある白鳥になる。
殊更プロレス界と一般生活を歩むなかで自身のアイデンティティとは何かを常に考えなければいけないようだった自分と重なった。

2018年の夏、亜利弥さんが亡くなったとニュースで知った。病と闘う亜利弥さんに勇気づけられ、東京でお世話になった恩返しをしたいという気持ちもあり大阪に出てきた。
ニュースを知り、絶句した。

この頃卒業した専門学校を相手に弁護士を立てるトラブルにも見舞われた。
講師より就職活動をする際卒業と同時に取得ができると説明のあった資格が法律改定により認可されておらず、
そうとは知らない自分は取得見込みという体で東京のクリニックで働き出していた。
クリニックから資格の証明を求められ、学校に問い合わせをした事で事態が発覚し、無資格という事で退職となっていた。

そんな中でのニュースは身が裂ける思いだった。
精神的に落ち込み精神科にも通い適応障害と自律神経失調症と診断された。

プロレスをしなければこんな思いしなかったのかと責めたこともあった。
しかし癖なのかプロレス界の、自身がお世話になった団体のことはチェックしていた。

憧れていた先輩のことが昔憧れていた姿でなくなり嫌いになりかけたこともあった。

千葉の団体が運営が代わり昔お世話になった方は引退や退団などでほとんど残っていなかった。
練習した公園やご飯を食べさせてくれたお店まで足を伸ばして昔に思いを馳せたこともあった。

プロレス界を目指した当初のきっかけの選手の引退興行にいき、最後の挨拶をしたかったが出来ず、手紙をしたためたが破り捨てた。
その興行でプロレス界入りをサポートしてくれた先輩の声が聞こえたが謝ることもできなかった。

裏方として音響に一度だけ携わることがあった。
もう一度レスラー目指さない?と誘われたが断ってしまった。そこも自分の弱さから不義理をした。

広島で立ち上げたばかりの団体を知り募集メンバーとしてマネージャーでの参加を希望し、面談をする予定だったが先方から連絡が途絶えなくなったこともあった。

プロレスをしたことを悔やんで悔やんでどうしようもなくなった時もあった。
それでも自分はプロレスが好きだ。
他の格闘技やスポーツではなくプロレスというものが好きだ。
プロレスという文化を脈々と受け継ぎ守ってきたプロレスラーが好きだ。
入場曲が流れ、照明に照らされながら入場するシーンが大好きだ。
感情と感情とがぶつかりファンも一体感に飲まれるあの空間が好きだ。
そして、四本のコーナーと三本のロープに囲まれ走ると弾む音を出すリングが大好きなのだ。
もしまた機会があり許されるならプロレスとまた携わりたい。裏方でもいい。

18歳まで田舎で生きるしか道のなかった自分を救い出してくれたプロレスに恩返しをしたいと願う。
自分はプロレスが死ぬまで好きなのであろう。
そしてプロレスと出会い、興行の世界に青春時代を費やしたことを誇りに思い続けたい。
右も左もわからず途中で挫折をした人間だが、自分にプロレスを教えてくれた全ての先輩、スタッフの方、見守ってくれていた観客の方に感謝をしたい。
いつも頭によぎるプロレスの存在が道を踏み外すことなく、どんなに挫けそうな時でも立ちあがろうと思えた。
プロレスに魅了されたやられてもやられても立ち上がる姿を自分の心の中で生き続けたいと思う。
プロレスに憧れプロレスの世界に飛び込んだ時間は自分の人生の骨となりかけがえのない宝物だ。

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