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饒舌な砂場〔サンドボックス〕 ──Fallout4について

昔Rhetorica向けに書いたゲームエッセイです。許可をいただけたので転載。
初出:Rhetorica#03 (2016年10月)
ゲーム:Fallout4 (2015年12月)
画像出典:https://fallout.bethesda.net/ja/games/fallout-4

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 大してコアなゲーマーという訳でもないが、最近はオープンワールド・ゲームと呼ばれる、設定された広大な世界を、思いつくさま自由に動き回ることが可能なゲームばかりをプレイしている。


「Fallout4」はまさにその類のゲームだ。プレイヤーは「ウェイストランド」──核戦争による放射性降下物〔フォールアウト〕に汚染され、荒廃した世界──を駆け巡り、物語を紡いでいく。
「Fallout」シリーズに通底する世界は、雑に言えばこうなる。1950年代アメリカの想像力──サバービア、ストリームライン、ミッドセンチュリー、マクドナルド、コカ・コーラ──の文化のまま、無批判な原子力エネルギー全盛によって時代が発展し、『禁断の惑星』のロビーみたいなロボットまで実現した、レトロでフューチュラマな世界。蒸気機関が支配する世界をスチーム・パンク、ディーゼル機関ではディーゼル・パンクと呼ぶならば、私はそれをニュークラマ・パンク(Nukarama Punk)【*01】と呼びたい。そのニュークラマ・パンクな世界に、赤軍印の核を数発打ち込んで『マッドマックス2』成分を注入、ついでに『ゴジラ』と『ゾンビ』と『ターミネーター』の想像力をごった煮にして添えれば「Fallout」ワールドの完成──なんてこんがらがった世界だ〔What a lovely Wasteland!〕。
 ともかく、プレイヤーはその狂った世界を、心の赴くままに行動することができる。いくつかある組織に所属して任務に携わることもできるし、所属しないこともできる。メインのストーリーを進めるかどうかも自由で、文字通り適当に生活することが可能だ。

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 しかしちょっと待ってほしい。可能だからといって、意味もなく適当に生きることは(ゲーム上のこととはいえ)正直面倒ではないか。その行為に、なんらかの物語を見出せないと面白くないのではないか。物語が──むしろ、物語を見い出す土壌が──ない状態において、主人公キャラになりきってロールプレイすることは困難を極める。つまり、文脈から切り離された状態で、われわれは対象(主人公キャラ)と自分(わたし)を、彼/我を、自然にかつアドホックに混同できるだろうか? という問題が存在している。
 オープンワールド・ゲームにおいて、画面上の彼、彼女を自分だと思うためには、画面に映るイメージとスピーカから響くサウンドが、どれほど“らしく”あるかにかかっている。“らしさ”とはなにか。ここでは深く掘り下げないが、陳腐ながらこの2点に集約されるだろう。“らしさ”とは、イメージ・サウンドが世界設定をどれほど強烈にアピールするか、加えて、それらのディテールがどれだけ細かいか、である。この2点の質が高ければ高いほど、われわれは向こう側の世界を興味深く、そして本物“らしく”感じ、彼/我をない混ぜにして没入することが可能になる。

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 ここまで書いてきてふと気がついたのだが、オープンワールド・ゲームは、構造が古典的なSFと同じ、なのではないだろうか。本筋となる物語よりも、むしろその物語が駆動している台座のつくり込みが前景化しているのだ。ボーイ・ミーツ・ガールなのか父殺しなのかが重要なのではなく、設定資料の厚みと、理屈のディテール自体を味わうことによって、こちら側とあちら側に橋を渡す楽しみ方……。先ほど述べた、“らしさ”の問題と軌を一にしている。それこそがオープンワールド・ゲーム、あるいは古典的なSFにおいて、彼/我を繋ぎ留める紐帯なのではないだろうか。

 対象がどう生きているのかではなく、どこに生きているのかと問うこと。

 さて「Fallout4」には、物語を見い出すことができるような土壌はあるのだろうか? そしてその土地は、どれほど肥沃だろうか?
 その評価は皆に委ねよう。ただ、ウェイストランド、目も眩むディテールに覆われたその風景は、私にこう語りかけている。
「ここがお前の生きる世界だ」と。


*01──「ニュークラマ」は核、原子力を意味する俗語「Nuke」に、接尾辞「-rama」を加えた造語。接尾辞「-rama (-orama, -arama)」は遡れば古代ギリシアのὅρᾱμᾰ(hórāma)を語源として、眺望などを意味する。1950、60年代のアメリカでは「-rama」を使った造語が流行した。「ニュークラマ・パンク」は本来であれば「ニュークリア・パンク」とするべきかもしれないが、本稿では1939年のニューヨーク万国博覧会にてGMが展示したパノラマ・アトラクション「Futurama」を念頭に置き、「“ミッドセンチュリーのアメリカが夢見た未来像”としての原子力機関的想像力」=「ニュークラマ」とした。

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