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焼肉レモン伝説

おそらくご存知だろう、特に焼肉の場において語られる伝説を。
「焼き網にレモンを塗りつけてから焼けば、肉がくっつかない」
だが実際やってみると、肉は網にくっつく。

筆者は中学生の時分に初めて父からこれを聞き、以来さまざまな焼肉の場で、さまざまな人々の口から「焼き網にレモン」を聞いたが、くっつかずに焼けたことは一度もなく、伝承を口にした誰もが同様の経験をしているようであった。
実際やってみればすぐさま否定されるような方法論が、長期間消えることなく広範囲に伝播しているのはなぜだろうか。

「焼き網にレモン」の起源と伝播について考察してみたい。


「熱した金属と固着」の身近なものとして、ハンダ付けが挙げられる。
ハンダ付けには母材の接合部の酸化被膜を除去する工程がある。
酸化被膜があるとハンダの付きが悪い(=くっつかない)。
ならば焼き網に酸化被膜を形成すれば肉がくっつきにくくなるかもしれない。
そうだ。肉に添えてあるレモンを使おう。酸だし。
そんな発想で、焼き網に酸化被膜を作って、肉がくっつくのを軽減しようとした人がいたのではなかろうか。

だが、残念ながらクエン酸は酸化被膜を作るのではなく、還元反応で酸化被膜を除去してしまう。
ハンダであればよりくっつきやすくなるところだが、肉と金属では酸化被膜の有無でくっつきにくさに有意差があるとは考えにくい。
例えば、アルミ鍋のアルマイト加工は酸化被膜によるものだ。
アルマイト加工の鍋で肉を焼いてくっついたことのある人は多いだろう。
これは酸化被膜が肉のくっつきを軽減する作用がないことを端的に示している。

ハンダの例に戻ろう。
ハンダをつける際、母材は十分に熱しておかなければならない。
溶けたハンダと母材の温度差が大きいと(特に、母材が冷えたままだと)ハンダはうまく定着せず、粒状に固まってしまう。
温度差が大きいとくっつきにくいという作用から、焼き網レモンを再検討してみよう。
レモンを塗りつけることで焼き網の温度は一時的に低下する。
焼き網が母材とすれば、ハンダ付けの作法の逆用として成立しそうだ。
だが、生肉は冷たい。焼き網を冷却すると肉との温度差が小さくなり余計にくっつきやすくなってしまう。

フライパンで肉を焼く場合を思い浮かべてほしい。
たいてい(フッ素等のコーティング加工でもされていない限り)、よく熱したフライパンに肉を投入する。
肉と金属は温度差が大きいほどくっつきにくい、とも言える。
実際には、短時間で移動させながら、特に油膜によって固着が阻害されている間に肉の表面を焼き固めることでフライパンとの固着を防いでいるわけだが、それにはフライパンが十分に熱されている必要がある。
つまり、肉がくっつかないようにするために焼き網にレモンを塗りつける行為は、焼き網の温度を低下させ余計にくっつきやすくしていることになる。


これまでに検討したことから「焼き網にレモン」の発生に至るための科学的な根拠はなく、実際やってみれば明らかに効果はない。
しかしなぜ焼き網レモンは否定されず、伝承されてきたのか。

酸化被膜の段で推測したように、発生は『そうだ。肉に添えてあるレモンを使おう。酸だし。』程度のノリだったのであろう。
原理自体は誤っているとして、そのときは偶然肉がくっつかずに焼けたことで機能が立証されたかのような状況が生まれたのかもしれないし、当初から期待通りの機能が発揮されなかったのかもしれない。
前者であれば成功例として、後者であれば人を担ぐ与太話として、他者へ他所へ伝播した。

焼肉といえばごちそうである。酒も入る。
「焼き網にレモン」は上手く行こうが行くまいが、焼肉の威力により愉快な営為として記憶される。
くっついても、くっつかなくてもいい。焼肉がうまいから。
ただこれだけの理由で、焼き網レモンは否定されず、むしろ肯定的に人々に語り継がれた。

人類社会に焼肉のある限り、レモンの伝説も語り継がれてゆくのだろう。