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【NinthPencil】心の余白に気付かされた「答え」


※ところどころ私の人生についての持論を展開しています。的外れなことを言っているかもしれませんし、見解違いがあるかもしれません。多めに見ていただけるとありがたいです・・・。

※ところどころ聖書の言葉がありますが、キリスト系の学校に10年近く通っているためちょっと勉強したことがある程度です。クリスチャンではありません。本職の方からすると解釈違いがあるかもしれませんのでご了承ください。



UNISON SQUARE GARDEN 9th Album "Ninth Peel"より
"City Peel"の世界をお届けします。
お手元のスマートフォンで、"City Peel"を聞き流しながら読んでいただけると
さらに世界が広がっていくでしょう。
それでは、最後までごゆっくりと、お楽しみください。


エピローグ

何気ない日常に溶け込んだモノが、いつしか宝石に変わっている。

あるいは、宝石だと思っていたものが、ただのガラクタだったこともある。

そうやって人は取捨選択をして、生きる意味について問うて来た。

19年目の彼らが、皮をむいたその先に見えた景色とは。


本編

「自分の価値」とは

「一皮剥けたなあ」なんて言われても自覚がない。
一般的に一皮剥けた、と言われると何か困難や苦悩を乗り越え一段階レベルアップしている様のことをいう。
自分で判断できるものではなく、他人から言われて初めて気づくものではないか。

そうやって、他人じゃないと自分の居場所を測れないことはたくさんある。
ましてやお金なんて、他人や世間という物差しで自分を定量的に計った時の単位だから、自分一人で決めれるものではない。
ただそれだけで決めれるものなんだろうか、「自分の価値」って。

「一皮剥けた街」には何があるというのか。
苦悩や困難を乗り越えた先に何が見えるというのか。
街という皮を剥がしてみると、そこには私たちが存在し、それぞれの愛があり、それぞれの人生がある。
ただ、そこに持つ「意味」とはなんなのか。

この謎を解き明かすべくして、私は人生という意味を問うための「皮」を剥がすことにした。
「都会(まち)の皮」と題された、
齧りかけのビスケットをコーヒーに浸す歌。
19年目を迎えた彼らが、この曲を世に出した意味とは。


不可思議な模様をした、異世界のエントランス

時計はそろそろ13時を指す。

City Peel サビ

曲調は夕暮れ時を連想させるものと思いきや、サビで昼時を告げられる。

冒頭から忙しない日々に疲れた主人公が、仕事の合間を縫って心を癒やそうとしている。

目の前に散らばっているファイルアイコンが無機質ながらもひそかに嗤っているように見える、
みたいな。
聞き飽きた教訓も、いつしかただのBGMになっていて忙しない日常の中へ勝手に溶け込んでいく、
みたいな。

そんな日常を想起させる。

心の余裕がなくなると体に影響が出る。
病は気からなんてよく言われたもんだ。
ただこれ最近気づいたのだけど、「体調が悪くなるのは自分の意識のせい」という体調崩すのは気持ちのせいだから自己責任である,ということを暗示しているだけではなく、「心に負担があってその影響が体調にくる」という心を休ませるサインでもあるよ、ってことが言いたいんだなって思った。

ここで詩っている情景は、本当に何気ない日常のものが多い。
そして日常の何気ない瞬間から、当時の記憶が蘇ってきたりもする。

自転車配達員は急ぐ
ブレーキの音に猫が跳ぶ

City Peel 1A

どこかでカラメル焦げた様な
匂いに紛れて思い出す
仕事帰りに待ち合わせて
7割の歩幅で帰ったこと

CIty Peel 2B

当時付き合ってたあの子と通ったカフェテラス、
かつての旧友とバカし合ったあの公園のベンチ、
星空が眩しかった、たまたま通りかかった坂道、
齧りかけのビスケットが紅茶に浸り漂った香り、

目まぐるしく回る日常の中で、こんな何気ない情景に目を向けた瞬間、
ちょっと心がすっきりした感じがする。
この情景に気付かないということは、たぶん心に「余白」がなかったのだろう。
忙しいせいで、こんなささやかな日常の動きに気付けないのは、
ちょっと寂しい気がする。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書 11.28

私は疲れたときに散歩をする。
そして外の音に耳を澄まし、足音を感じながら林の中を歩く。
携帯電話も、何もかもしまったまま。
意外とこういうときに名案が生まれたりするんですよね。
さっきまで感じていなかったことに対し、敏感になり体の中を走っていく。
何気ない情景が、私の心を洗ってくれるようで良い習慣だ。

そんな忙しのない雑踏に疲れている中、主人公は「異世界のエントランス」を見ていた。
急ぐ自転車配達員、ブレーキの音に驚く猫。
そこから入ろうとした、「異世界のエントランス」
これについて私は、誰もが持っている「アレ」から見れる「あの世界」ではないかと考えたが、それについては後述する。


「心のドミノ」と「心のフシギ」

心のドミノを押したのもきっと僕だったよ
心のフシギは僕のせいじゃないけど

掛け違えたボタンのズレから
心地良さがたまに生まれる
それを知らないまま大人になんかならないで

City Peel 2サビ後半

ドミノを作ったことがあるだろうか。
小さい頃は今はなきVHSを床に並べて倒していた。

ピタゴラスイッチもその進化系だと思うが、動作ひとつであらゆる物語が広がるあのコンテンツに心奪われていた。

皮を剥いた先に感じた「心のドミノ」と「心のフシギ」
彼らは何を想像し伝えてくれたのか。


1つ倒れると、次の1つも倒れる。
気づけば、軽い音を立てながらすべて倒れてゆく。

1つの行動が、日常の動きを変える。
1つの思考が、今までの感情反応に変化を加える。

なぜそんな動きをしたのか、なぜそんな感情反応が変化したのか。
それについては知る由もない。

この世の真理だと思う。
今まで何気なく過ごしていた日々が、行動1つで違う反応を得る。
良くも悪くも、情報1つで人の人生を変えることができる。

ただその行動をしたのも、その情報について思考を巡らせたのも、
自分次第でしかないのだ。
「心のドミノ」を押したのは紛れもない僕なのである。

しかしその後の「心のフシギ」は僕のせいじゃない。
「心のドミノ」を押したことにより変化し、受け取った不確かな感情は
「心のドミノ」を倒し流れに乗った結果だ。
「心のフシギ」が生まれようと、「心のドミノ」の流れの先は誰にもわからないから、その先の人生白黒はっきりさせるのは邪推なのではないか。

だからこそ、白黒つけず「流れに身を任せる」は実は悪いことではないんだろうな。


人間誰しも白黒はっきりさせたがる。
「答え」のない未来には不安しか抱かないから。
だから風潮やレールというものが存在する。
「レールや風潮に流されず自分のやりたいことをやればいい」と人は言うけれど、レールがあるからこそ社会が成り立ってるんだろうなって気がしてる。

でも、こんな目まぐるしく変化する時代で、わざわざ答えを求めに行くのもなんか違う。

何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた時がある。

コヘレトの言葉 3.1

「心のドミノ」のように、ある決断や流れに乗れば
あとは身を任せに生きていく。
「ドミノ」は自分で押すので決定権は自分にある。
あとは、その流れに乗ってなるようになるという精神で人生を歩みたい。

彼が私に語り始めた時、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかけるものに耳を傾けた。

エゼキエル書 2.2

流れに身を委ねるのは、自分で何もしないということではない。
自分の足で立ったが、立たせたのはわたしではない。
そうやって神に身を委ねても、自分の個性は尊重される。

一人一人全く違う時の流れがあり、それに沿って歩んでいく。
また、全ての物事には起こるべきタイミングがある。
それらは全て、自分の手によって起こせるものではない。

「ドミノ」のように流れを任せた生き方により出会った新しい自分。
この後に出てくる「掛け違えたボタンのズレ」から
「心地良さ」がたまに生まれるというのも、
行動の変化により、私の内省の変化が見え
新しい自分がとても良いものだと思わせてくれたことを比喩しているのだろう。


今日、歌が生まれた理由。

度々、ユニゾンは日常の情景を思い出させるような歌詞を歌う。
そしてその情景はいずれ特別なものとなる。

ネオン消えてついて繰り返していつかは
この雨も星もディナーも涙も
フォトグラフみたいになって

夢が覚めたら(at that river)

日常に潜む景色には、特別な力を秘めている。
しかしそれを認識するかどうかは自分の「余白」次第である。
それに感銘するもしないも自分の感情の振れ幅次第である。
ただ、必ずそばで輝いているから、ぜひ目を向けてみてほしい。

冒頭で触れた、日々の情景の中に現れた「異世界へのエントランス」
私はこの「異世界」という言葉を「SNSなどのインターネットの世界」と捉えた。

転がって汚れた毛並みの
不可思議な模様にclose upする
嘘みたいな本当の話
あれは異世界へのエントランス

City Peel 1B

日常の中に溶け込んだ「違和感」について人は何らかの形で埋めようとする。
現代社会において、それを埋め合わせる道具としてインターネットがある。
特にSNSでは、日常に紛れた不可思議で不可解な問題がクローズアップされ、それについて様々な憶測が飛び交う。
やがて、嘘みたいだが裏を返せば本当の話に誘われ、私たちが普段見ることのない異世界に連れさられる。

その異世界では、「余白」なく着飾った投稿が羅列され、私たちの上辺の感情を揺るがしてゆく。
ときに敵になり、欺かれ、そこで生きる「私」は何者かわからなくなる。
擬態化した「幸せ」に惑わされ自分を見失っていく。
時代は目まぐるしく変化し、答えを探すために忙しない雑踏が生まれる。
そして、残酷にもニュートラルな言葉は見向きもされず、宙を浮いたまま消えていく。

愚かなものとしてではなく、賢いものとして、細かく気を配って歩みなさい。
時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
だから、無分別なものとならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

エフェソの信徒への手紙 5.15-17

ただ、気づいてほしい。
画面の中ではなく、外側に広がる世界こそが、「人生」であるということ。
自転車配達員のブレーキに驚く猫。
あの子に合わせ、七割の歩幅で帰ったあの日。
かじりかけのビスケットを紅茶に浸したときに漂う香り。
全てが「人生」なのだ。

・・・むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、
主に向かって心から褒め歌いなさい。

エフェソの信徒への手紙 5.18-19

かけがえのない、何気ない一瞬が、「人生」を構成する。
時をよく用いると、一瞬一瞬が人生を構成し、「物語はスロースローペース」になる。
時間が生まれ、余白が生まれ、「歌」が生まれる。

流れに身を任せているから、今目の前に見えているものが「人生」なのであって,流れに身を任せているから、「人生の意味」がわかったような「気」になる。
どうせ次の一瞬には違う意味が見えているのだから。

髪型を変えて一個パチリ
水たまり踏んで一個パチリ
飛沫が滲んでなんかホロリ
まばたきの数だけ写真になれ

春が来てぼくら

心に「余白」が生まれると日常の一瞬に気付き、変化を楽しめ意味を作る。
「人生」は一人一人が瞬きの瞬間に切り取った情景から構成されるからこそ、客観的に見ると「不確か」なのである。
誰かに正否をつけられたものでは無く、あくまでも身を任せた結果私が受け取った一瞬から作られる人生。
だからこそ、自分にとっては意味がある。
これが、「自分のやりたいようにやれ」っていう意味なんでしょうか・・・。

「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父の元に行くことができない。」

ヨハネによる福音書 14.6

自分の人生は、「自分」にしかわからない。
自分でしか選択できない。
そこを通ることで、わたしたちは「幸せ」へと導いてくれる。

一人一人違うから、人生の意味なんて問うたところで答えは見つからない。
ただ、今、目の前にある景色が、「答え」なのである。

こうして私達は人生の一歩を踏み出していく。
まばたきの数だけで写したフォトグラフで、「心のフシギ」を埋めていこうではないか。
そうやって、次の「生きる意味」を探しにいこう。


都会を一皮剥いた先には、日常に溶け込む「人生の意味」がありました。
そして、白や黒では語れない、「フルカラーの人生」を作り出すのでした。


あとがきに変えて

私は、オフィス街から少し離れた良い感じのバーでマイナーなカクテルを嗜んだり、スタバプリペイドで支払ってるし、(そこそこ割と)有名私大に内部推薦入学しています。でもAndroidユーザーです。(2曲目樒様の記事を参照↓)

こんな当てられることある?


さて、
筆者予定が立て込みすぎて行き当たりばったりで筆を進めてたので、構成がめちゃくちゃだったかもしれないです。
飛躍してたり、「はあ?何言ってんのこいつ」っていう感情になると思いますが、自分でも自分のこと「はあ?何言ってんのこいつ」って思いながら生きているのであなたの感覚は正しいです。
もはやこの文章、もう一人の自分が書いていると思っているほどです。

それは置いといて。
今回ナツ様(@unfinisheddaisy)の企画【 #NinthPencil 】で、UNISON SQUARE GARDEN9枚目のアルバム、“Ninth Peel“ の5曲目「City Peel」で参加しました、夜な夜な兄さんことGotan(@garden_of_beats)です。
初めてSNS上でこんな大きな企画に参加させていただき、本当に光栄です。企画者のナツ様に感謝。

Ninth Peel、なんかよかったですよね。
「ここがいい」「あそこぶち上がるよね」っていう感想よりか、全体を通して「なんか心地良かったな」っていうのがピッタリでした(語彙力)。

この曲を聴いたとき、「XIIXの派生か?」ってなりました。
Numbness like a gingerといい、しっとり系の曲が増えたなあという印象。
なんかNinth Peelを一通り聴いたとき、「貫禄出たなあ」って大御所感ある印象を持ちました。(誰目線やねん。)

だからこの曲についてどう書こうかな、と思って一旦何も考えずに書いてみました。
が、皆さんの文章見て、「いやいやいやいや、こんなん無理やん。」って思いました。この中に混ざれるのか?俺は、って自問自答が広がってました。

だから、何としても自分の色を出そうと、頭を捻った結果、「聖書」を用いることとなりました。
クリスチャンではないですが、プロテスタントの学校に通って勉強していたので「聖書」については人よりか知見がある方だと思っています。急遽聖書の引用を探し、高校時代の授業ノートを引っ張り出しネットを駆使し、自分の記事にはめ込んでいきました。(大変だった。うん。大変だった。)

この歌詞を紐解いたとき、真っ先に思ったのが「私」と「異世界」の関係でした。
「異世界」という響きが昨今のネット生活に他ならないと感じました。
この考えから書き始めるのが手っ取り早いと思い、研究発表資料やエントリーシート作成の傍ら、キーボードを走らせました。

最近結構ずっと思っていることと、この歌詞の考察が重なっていました。
「人生」とはなんなのか、何が正解なのか。(就活してるからかな、こんなこと考えるのは。)
私もかれこれ5年以上ネット世界で生きている人間なので「自分とは」という疑問にも興味がありました。

ぶっちゃけ、最後のチャプターである「今日、歌が生まれた理由」についてはすっきりとした構成で書けたとはお世辞でも言えないです。次回機会あれば、ちゃんと考えたいな・・・・。


何気ない瞬間から、自分の変化に気づくことあるよな〜って思うことが多く、それは自分では気づかないことが多いな、なんなら自分で自分の変化に気づけるポイントって少ないんじゃないかって思いました。

別にSNSで良い悪いと評価されたかって、別にあなた私の人生に関係ないじゃない。
得体の知れない基準で付けられた評価が飛び交う世界で、何を求めるというのか。
人生、何が起こるかわからないからこそ面白い。


最後になりますが、今年はUNISON SQUARE GARDENの20周年。
いろんな思いがあるし、いろんなことを乗り越えてきました。
思い返せば、舞洲の次の年にコロナが始まったんですよ・・・。
パーテーションを隔てて食事をしたあの時代、今となっては考えられないですよね・・・。
時の流れは早く、私も成人して4年が経とうとしてます。

時間は目まぐるしく過ぎるので、もう流れに任せて生きるしかないです。
でも、どの流れに乗るのかは自分次第。
みんなで支え合いながら、波を読みながら、みんなそれぞれの幸せをつかみたいですね。どんな波に乗りたいか、今どんな波に乗っているのか、何が見えているのか、よかったらこっそり酒飲みながらでも話しましょや。

それでは、また。

(あれ?もしかしてあとがきの方が読みやすい?)


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