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役は、私に違う人生を追体験させてくれる

先日、約4年ぶりのお芝居の本番を迎えた。

ずっと映像役者として活動してきたけれど、
初めての舞台芝居だった。
しかも全編英語。
しかも2役の演じ分け。

なんだか我ながら
背伸びしすぎたなぁなんて思った。

今回演じたのは、
・大きな街のステージに立つことを夢見る踊り子
・5歳の病弱で死にかけの女の子
の2役。

女の子は、私が好きな役どころ。
親の心子知らず、
そして案外、子の心親知らず、なかんじ。

一方、踊り子は。
根拠のない自信に満ち溢れていて、
自分に想いを寄せてくれている郵便局員に
理不尽にブチ切れたりする。

「どうかしたの?」
「なんでもない」
「君、怒ってるでしょ」
「怒ってないわよ!」
「怒ってるよ」
「うるっさいなぁ!!!」

日本語だとこんな感じだろうか。

美しい踊り子が
自分のダンスの価値を認めてもらえなくて
悲しみと苛立ちでごった返しているときに、
コーヒーを差し入れてくれた郵便局員に
八つ当たりして胸倉に掴みかかる。

…超わがままでは?
ほんとにこの手の人種が私は一番嫌いだ。
ステージに立つ人間が
「自分の価値を認めてもらえないからブチ切れる」って、
意味がわからない。
ただの努力不足だし才能ないだけじゃん!

キャスティングのときは、
この役やるのかー、まじかー、うわぁぁ…
って感じだった。

稽古中に何回も言われた。
「そんなに内側で怒っちゃだめだよ!」
「相手にちゃんとぶつけなきゃ。」
「もっと投げつけて、受け取るんじゃなくて、
 自分のペースを作って!」

なにこれ、めちゃくちゃ難しい。

私としては、
日常的にかなり相手に
ぶつけにいってるつもりだった。
稽古中の録画を観ても、
結構どぎつくキレてる。
でも、演出家から、
「もっと!」と言われる。

どうしたもんかな、これ。

稽古が始まってから2ヶ月、
結局咀嚼できずにいたある日。
「踊り子はさ、圧倒的に自分が主人公だから、
周りの声なんて受け取ってないんだよ!
自分次第で周りは動くって信じてるの。」

はっとした。
そうか、彼女はプリマなのか。

彼女は自分が主人公の舞台で、
その舞台の責任を自分の手の中に持っている。
「No!」を言う権利を自覚して持っている。

誰かをうらやむでもなく、自分の人生を生きている。

彼女はどこまでも自分を生きてる。
だから自分にとって嬉しくないことに、
自分のために怒ることができる。
(理不尽な当たり散らしはどうかと思うけど。)

「3ドル15セント?たったこれだけ??」
「これが私の価値なんだ…3ドル15セントが!」

私だったら、怒れない。
受け止めてしまう。

でも、彼女は怒る。
自分の価値を信じてるから。
自分が費やしてきた時間を、
無駄ではないって信じてるから。
自分のことが大事だから、彼女は怒る。
自分を大事にするために、彼女は怒る。

本番のステージで、私は激怒したのだろう。
ほとんど、ステージで何をしたのか覚えていない。
なんとなく、郵便局員から受け取ったコーヒーを
ぶちまけた記憶がある。
…小道具に本物のコーヒーの用意はないから、
そんなことできないはずなのだけど。
体が、あのスリーブ越しのコーヒーの暖かさや、
液体の揺れ動く重みを覚えている。

袖にはけたあとすぐ女の子の役に早替えをしたけれど、
もう一度ステージに立つその直前まで、踊り子のままだった。

彼女を通して、私は自分のために怒ることを体感した。

自分を大事にすることの手段のひとつを、体感した。

とても不思議な感覚。
なんとも言えない安心感があった。

役を離れた翌日になって、
やっぱり理不尽に当たり散らされた
郵便局員が不憫で不憫で、
罪悪感に駆られたりしているけれど。

みんなこうして自分を守っているんだ。

芝居をやっていてよかったなと、改めて思った。
「芝居」という大義名分を以って
"自分の嫌いな別の誰か"に、なってみることができるから。

Y
A.踊り子を演じた。

W
A1自分を大事にすることは、自分を安心させてあげるために、つまり自分の心理的安全性を高めるために必要なことである。
A2但し、私は理不尽に誰かに当たり散らすような手段を取ることは嫌いである。

T
A1A2.八つ当たり以外の「自分を大事にする手段」を探し、まずはやってみる。

M
*私の好きな私に一歩近づく。

踊り子になれてよかった。


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