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【小説】駆けて!ホンマチ⑬

 喫茶ソルティの奥まった窓際のテーブルで物珍しく周囲を見渡している私は、50年前の異質な文化に戸惑いを隠せない。

 私の中にある喫茶店のイメージは、静かで落ち着いた雰囲気のリラックスできる快適な空間だ。これまでに訪れたカフェや喫茶店では、おおむねこのイメージのどれかにはあてはまっていた。

 しかし、1971年の蟹江町本町商店街に店舗を構える喫茶ソルティでは、そのすべてが覆された。

 客同士の会話は店内の端から端まで聞き取れるほどの大声で交わされている。その喧騒の中で勃発する客と店側との攻防も凄まじい。

「おーい、こっちの焼きそば定食まだか。忘れとらへんか?」

「忘れとらんわ!そんなに待てんのなら生焼けで出したろか?」

 強気なマスターは周囲の笑いを誘い、見事にモンスター客を黙らせてしまう。エッフェル塔のエプロンのおばさんも、常連客たちを相手に手際よく立ち回りながら、忙しなく店内を駆け回ってる。喫茶店というよりも、下町の食堂といったほうが相応しいのかもしれない。

 壁の扇風機は唸りを上げ、その風向きのせいか私の元には煙草の煙が漂ってくる。どのテーブルの灰皿にも吸殻が山になっているほどで、店全体が霞がかっているようにも見える。おなかの底が重たくなるような空気だ。

 天井から吊り下げられている蝿付きリボンのラスボス感は別格で、この昭和の喫茶店で落ち着けというのは、通常ならば私にとって非常に困難な要求なはずだ。

 でも何故か、心のどこかでこの状況を楽しんでいる自分がいることを不思議に感じる。


「真汐さんはどうやってこっちへ来たんだ?」

 不意に訊ねられ、言葉に詰まった。

「えっと・・本町通りを歩いてて、知らないおじさんに追いかけられたから走って逃げて、めまいを起こして・・。それで気付いたらタイムスリップしてた。って感じかな」

 あのめまいで目の前が真っ暗になり、一瞬だけ気を失ったような感覚があった。今思えば、それが何かの引き金になったのかもしれない。

「そうだ。それだよ!」

 トシという青年は、ピストルの形にした右手を私に向けながら目を見開いた。

「俺の場合はウイスキーを飲んでむせ返った。それがスイッチだ。こっちへ帰ってきたときも、同じように酷くむせたんだ。何を食べたのか覚えてないけどな」


 不意に起こる些細な体の異変が、タイムスリップを誘発するスイッチだと、トシ青年は主張する。彼の場合は酷い咳き込み。私はめまい。

「次に真汐さんがめまいを起こしたとき、それが元の時代に戻るときって寸法さ」

 その説に賛同することも、異論を唱えることもできない。私が今体験している出来事は、限りなく非現実に近い現象だ。非科学的で常識など通用しない世界では、何を信じるべきかの判断基準などあろうはずがない。

 しかし、元の時代の2021年に戻るには、もう一度めまいを起こすこと、という一つの仮説が成り立ったことに、大きな安心感が芽生えたのも事実だった。


「えっと、俊夫さん・・」

「トシって呼んでくれ。さん付けで呼ばれるのはくすぐったい」

「あ、じゃあ・・トシ君。トシ君はどれくらいの時間、別の時代に行ってたの?」

「うーん、せいぜい三時間くらいじゃないかな。酔いのせいで時間の感覚も怪しいけど・・」

 顎を摩りながら口籠っていたトシ君は、少しいやらしい目つきで私のことを眺めた。

「あのグラマーさも、酔いのせいでそう見えたのかな・・」


 2026年の私の水着姿を、トシ君は事あるごとに『グラマー』という言葉で表現する。

 馴染みのないそのワードを、これまで私はスルーしてきた。グラマーという表現に対する受け取り方に戸惑っていたからだ。

 そのニュアンスからして褒め言葉と取って良さそうなのだが、喜ぶべきか恥ずべきかを選択できない。

 それに何故私はそのとき、水着姿での対応を選択するのだろうか。スタイルに自信のない今の私からすれば、考えられない行動だ。

 五年後の私は、劇的な変貌でも遂げているというのだろうか。

「その、グラマーって今の私と何か違うの?私は21歳になってるはずだけど」

 私の知らない未来の私を知っているトシ君に、探りを入れてみる。

「ああ、全然違うよ。女ってのは変わるもんだな」

「えっ、どこがそんなに変わるの?」

 腕組みをして背もたれに身体を預け、視線を斜め上方に定めて回想していたトシ君は、ぺろりと上唇を舐めてから、とんでもない描写をした。

「俺は真汐さんの水着の中で揺れるおっぱいに目が釘付けだった。白くて大きくて柔らかそうで。そうだ、左胸の谷間のところにほくろがあるだろ」

 トシ君の視線が、明らかに私のTシャツの胸元に向けられている。私は思わず両腕で胸を覆った。

「ははっ、心配するな。今は小さくても将来ちゃんと大きくなるぞ」

 顔から火が出るほど赤面しているのが自分でもわかる。下品で低俗極まりない言葉を浴びせられ、経験したことのない不快感が噴出した。胸が小さいだの大きくなるだの、あまりにも無神経で無礼な表現だ。

「ちょっと、それ完全にセクハラだからね!」

 体を硬直させながらそう睨みつけるのが精一杯だったが、トシ君は悪びれる様子もなく「なんだい?せくはらって」と、にこにこと無邪気に笑っているばかりなので拍子抜けする。

「顔だってずっと美人になる。言われてみれば面影はあるけど、ドレミ亭の前であの未来の電話機を見なければ、君が真汐さんだなんて気付かなかっただろうな」


 ドレミ亭というお店でみたらし団子が焼けるのを待っている間に、私は不良グループにスマホを取り上げられた。その中の一人だったトシ君は「舶来品の安物のおもちゃ」だと吐き捨て、私にスマホを返してくれた。実はそのときに、おもちゃではなく未来の電話機だと認識し、私を真汐だと気付いてくれていたのだ。

 その事実には、少しだけ見直してあげることにする。でも今後、私のことを少しでもいやらしい目つきで見たら許さない。二度目はないと心に誓うと、待ちわびたサンドイッチが運ばれてきた。

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