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【小説】駆けて!ホンマチ⑪

「2026年の世界に迷い込んだなんて夢にも思わなかった。真汐さんに説明されるまでは、自分は死んで天国に来たと信じ込んでいたからね。可笑しいだろ」

 トシという青年は苦笑しながらポケットから煙草を取出した。折れかかっている一本をつまみ出すと空になった紙ケースを握りつぶし、擦ったマッチと一緒に川へ投げ捨てた。

「実を言うと、それからのことは鮮明な記憶がないんだ」

 昇平橋の欄干に肘を付き、蟹江川を見下ろしながら力なく紫煙を吐くと、申し訳なさそうな顔をした。

「酒が回ってきて上機嫌でさ。情けないよ」

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 自殺の目的で訪れた内海海水浴場の浜辺でウイスキーをあおり、意識が遠のくほどにむせ返った後、俊夫は56年後にタイムスリップした。

 その俊夫を出迎えたのは、水着姿の真汐とカメラを携えた和歌子だった。

「今日は2026年の8月2日。驚いたでしょ。でも心配しないで。そのうちに元の時代に帰れるから」

 真汐は俊夫の肩をぽんと叩いた。

「私は神谷真汐。私もタイムスリップした経験があるの。私の場合は1971年という過去の世界だった。そのときはトシ君に親切にしてもらって本当にお世話になりました。そして、こちらは和歌子さん。百合子さんの妹さんよ」

 困惑の表情のまま固まっていた俊夫は、その言葉に目を見開いた。

「若山和歌子です。旧姓白石。姉の百合子がお世話になりました。今日は姉からの言付けを俊夫さんに伝えに来ました」

 照りつける太陽に額の汗を光らせながら、俊夫は余りの衝撃に言葉を発することさえできずにいた。


「トシ君は、ここに自殺するつもりで来たんだよね」

 真汐が重い口を開いた。

「あのとき父と母があなたに酷い仕打ちをしたこと、私は止めることができなかった。ごめんなさいね」

 和歌子は再び頭を下げた。

「父と母は一方的に俊夫さんを責めた。あなたがいなければ姉はこんなことにならなかったって。でも私は知っていたの。姉は俊夫さんとの初めてのデートにとても浮かれていたこと。姉のほうからデートに誘ったこと。そしてデートの前日、ワクワクしてなかなか眠れなかったこと。デパートで買ってきた水着を拡げて『派手かしら』って頬を赤らめてた。あんなに幸せそうな姉の顔は初めてだったわ。でも私は怖くて父と母にそんなことは言えなかったの」

 ハンカチで汗と涙を抑えながら、和歌子は本題へと移った。

「つい最近のことなの。私の夢枕に姉が現れるようになったのは」

 うつむき気味だった俊夫は、視線を和歌子に向け真剣に聞き入った。


「五十回忌も終えたのに、姉が枕元に現れることに私は当初困惑していたの。供養が不十分だったのかと後悔したわ」

『和歌ちゃん、違うよ。皆がちゃんと供養してくれたお陰で、私はこうしていられるの。立派なお墓を建ててくれてありがとう。だから私はこうして穏やかでいられるのよ』

「在りし日の姿のままの姉はそうやって微笑むの。すると表情を引き締めたわ」

『あのね、折り入って和歌ちゃんにお願いがあるの。俊夫君が私の後を追おうとしている。そんなのは嫌。俊夫君には私の分まで幸せになってほしいから。ねえ和歌ちゃん、俊夫君を止めて。お願い』

「私のほうからは上手く言葉を発せなかったけれど、気持ちは姉に伝わっているようだったの」

『大丈夫、和歌ちゃんと俊夫君は会うことになっているのよ。でも一度きりだから注意して』

「姉は私に顔を近づけると懇願するように訴えたわ」

『俊夫君に伝えてほしいの。ごめんなさいって。あの時、私調子に乗りすぎたの。ちょっと困らせようって。海に潜って沈んだふりをしようって。潜って少ししたら急に体が動かなくなって。意識がふわっと無くなって』

「私は姉を抱きしめようと思ったけれど、体が言うことを聞かないの。話を聴く以外何もできなかったわ」

『私ね、死んだとき少しも苦しんでいないから安心して。逆にすごく穏やかな気持ちだった。最後に一緒だったのが俊夫君で幸せでしたって伝えて。あと、若大将の映画を観に行く約束をしていたのに叶わなくてごめんなさいって。蟹江町のソルティって言う喫茶店のミックスジュースを飲むことができなくなって残念だとも伝えてほしい。とっても美味しいって俊夫君が自慢してたの』

「姉の姿と声は徐々に消えていってしまうの」

『和歌ちゃん、よろしくお願いします・・』

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「百合子はそうやって何度となく和歌子さんの枕元に現れたそうだ。それを聞いて体が震えたよ。若大将の映画の約束やソルティのミックスジュースの話なんて、俺と百合子以外知るはずがない・・」

 トシという青年は眼下に流れる蟹江川を泳ぐ魚を目で追いながら、次第に語気を強めた。

「俺、生きてていいんだ。そう思い直させてくれた。真汐さんと和歌子さんは命の恩人だ。感謝してもしきれない」

 そう話を締めくくった。私たちにお昼ご飯をご馳走になったことや、静かで快適な車に乗せてもらったこと。手帳のような形状の電話機の存在など、56年後の生活も垣間見たのだが、酔いのせいでほとんど記憶がないという。

「はっきりと覚えているのは、和歌子さんが伝えてくれた百合子からのメッセージと、真汐さんのグラマーな水着姿かな」


 私は話の展開に頭が全く追いついていない。今聞いた話は信じていいのだろうか。その判断さえもままならない。でも確たる根拠はないが、この青年は私にでたらめを喋っているとは思えない。一旦すべてを真実だと受け入れてみる。

 そうなると、話に出ていた和歌子さんというのは、母の友人で間違いなさそうだ。私の愛用するミラーレス一眼レフカメラをはじめ、我が家にお下がり品を山ほど届けてくれるのが彼女だ。第一、若山和歌子などという語呂のいい名前など、そうはいないだろう。カメラを持っていたという点も頷けるが、飽き性の和歌子さんが五年後もカメラ女子のままでいるなんて驚きだ。

 もっとも、姉を亡くした過去があるなど、私の知り得る範疇ではないが。

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