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【小説】駆けて!ホンマチ⑩

 1969年8月2日。

 免許を取得したばかりの俊夫は、悪友の自転車屋の息子から80CCの単車を調達してもらい、百合子との約束を果たした。

 借り物のスズキはクラッチの調子が悪く、タイヤもツルツルだったが、百合子を背中に乗せた俊夫は夢見心地でハンドルを握った。


 砂浜に立つ百合子は気品溢れる妖精のようだった。この日のために買い求めたという鮮やかなオレンジとブルーで配色された水着は、白い砂浜と日焼けした肌によく映えた。眩いばかりに輝く百合子の姿は、周囲の視線を独占していた。

 打ち寄せる波と戯れていた百合子は「泳いでくるね」とクロールを始めた。俊夫もあとを追いかけた。

 スポーツ万能の百合子は泳ぎも得意で、俊夫はなかなか追いつけない。百合子はそれを面白がるかのように、何度か振り向いては俊夫に「早くおいで」と手招きをする。

 百合子はぐんぐん俊夫から遠ざかっていく。内海の海は遠浅だが、かなりの水深の地点まで泳いできている。

「もう戻ってこいよ!」

 決して泳ぎが得意ではない俊夫はそう呼び止めたが、百合子はそれを嘲笑うかのように更に遠ざかっていく。


 百合子の姿が見えなくなったのは、その直後のことだった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 あれから一年、俊夫の心は落ち着くどころか、狂おしい記憶は脳裏から離れようとしてくれない。自分を責め続け、周囲との交わりを断絶し、暗黒の世界に閉じこもった。

「お前の顔など見たくはない。お前のせいで百合子は死んだんだ!」

「あなたが百合子を誑かさなければこんなことにならなかったのに。百合子を返して!」

 葬儀会場では百合子の両親から罵倒され、参列することすら許されなかった。

 学校や近所でも白い目で見られ続けた。


 百合子の太陽のような笑顔。無邪気な仕草。透き通った瞳。おさげに結った艶やかな黒髪。もう戻ってこない。

 何故。

 何故逝ってしまったのか。

 何故守ってあげられなかったのか。


 自問自答を繰り返し、自責の念に押しつぶされそうになる。百合子のいない生活に、自分の存在意義を見つけることなどできなかった。


 酒屋を営む自宅店舗の陳列棚からくすねてきたトリスウイスキーの小瓶の栓をねじり開ける。

 こいつを飲み干して海に入る。百合子が沈んでいった地点は忘れるはずがない。自分が後を追うことが百合子の本望なのかどうかは、最後まで答えが見つからなかった。

 でもこれは衝動的な行動ではないと、俊夫は自分に言い聞かせた。

 残された自分の辛さは、きっと百合子も理解してくれるに違いない。

 何よりも、百合子のそばに戻りたい。


 俊夫はウイスキーを勢い良く口の中に流し込んだ。

 喉を焼くような強烈な刺激に、堪らずむせ返った。あまりのアルコール度数に驚いた食道は、その一部を気管に入れたしまったらしく、俊夫はごほごほと激しく何度も繰り返し咳き込んだ。

 経験したことのない胸の痛みに気を失いそうになる。しゃがみ込んでその苦痛に耐えていた俊夫だが、ようやく落ち着きを取り戻すとゆっくり立ち上がり、大きく深呼吸をした。

 ウイスキーを甘く見ていたことを後悔した。だが負けるわけにはいかない。こいつを飲み干して海に入り、酩酊状態で泳ぎ続ける。やがては意識を失い、この海に沈んでいく。

 どんなに苦しいのか想像がつかない。でも百合子と同じ苦しみを味わいながら死ぬ覚悟はできている。

 俊夫はもう一度トリスウイスキーの小瓶を口元に近づけた。


 ふと周囲の景色が目に入る。その違和感に意識的に瞬きを繰り返した。静かにウイスキーを持つ手を下ろし栓を閉じて佇んだ。


 大きく胸元が開き、脚の付け根から腰にかけて深く切れ込みのある水着を着た女性たちの姿が見える。顔は日本人だが髪は金髪だ。赤や緑色の髪色の女性もいる。長く伸ばした爪にはカラフルな柄が描かれていたり、臍に指輪のようなアクセサリーをつけた姿もある。

 浜辺には不思議な音楽が流れ、道路に目をやると見たことのない車ばかり走っている。

 そして異常に暑い。


 暫く呆然と立ちすくんでいた俊夫だが、眼前の光景から事の顛末を導き出すと、愕然と肩を落とした。

「何てザマだ。海に入る前に天国に来ちまった・・」

 慣れないアルコールにむせ返り、呼吸困難に陥ってそのまま呆気なく絶命するとは、何と間抜けな最期かと俊夫は悔やんだ。

 百合子と同じ海の中で命を断つという計画は水泡に消えた。いや、水泡どころか海の中にさえ入れなかった。

「一生の不覚・・」

 眼前に拡がる穏やかな天国の光景に、全身から力が抜けていった。

 俊夫は弱々しくその場にへたり込んだ。そして両足を砂の上に投げ出してから寝転ぶと、

照りつける太陽に顔をしかめながら考えた。


 天国というところは、もっと快適な場所だと想像していた。こう暑いと喉も乾く。飲み物はどうやって手に入れればいいのだろう。

 そうだ、俺はまだここに来たばかりだ。何か手続きが必要なのだろう。役所のような施設があるのだろうか。ここでのルールや生活方法も知らない。住居もない。誰かに話しかけて教えを請う必要性を感じた。

 上体を起こして周囲を見渡すと、程なくして二人の女性が近付いてきた。

 一人は若くて綺麗な女性で、もう一人はかなり年配だ。若いほうは水着姿でスタイルも良く、普通の黒髪をしており爪にも絵は書いていない。おばさんのほうは大層立派なカメラを抱えている。


「トシ君?俊夫君でしょ?」

 若いほうがそう声を掛けてきた。名前を呼ばれたということは、自分がここへ来たことは既に通達済みで、これから入国手続きというのかは不明だが、何らかの取交しがあるのだろうと俊夫は考えた。

 この二人は言わば管理官なのだろう。カメラは証明写真を撮影すると考えれば合点がいく。地上ではこういった職務はお堅い役人が受け持つのが常だが、天国では水着美女が登用されているところがいかにも楽園的で先進性があると、俊夫は勝手な解釈をした。

「はい、そうです。日比野俊夫です。よろしくお願いします」

 俊夫が律儀に頭を下げると、年配のほうがみるみると感極まった表情に変わっていく。

「俊夫さん・・、ごめんなさい。私、俊夫さんをかばってあげられなかった。本当にごめんなさいね・・」

 そう声を振り絞ると大粒の涙を流し、その場で土下座を始めた。

「ちょっと!和歌子さんやめてよ、こんなところで。みんな見てるし」

 水着美女が周りを気にしながら嗚咽している年配女性をなだめている。

「あのう、俺の手続きは?」

 状況の飲み込めない俊夫は怪訝そうに口を開いた。

「手続き?え?何のこと、トシ君」

 しゃくりあげて泣いている丸まった背中を摩りながら、水着美女がそう聞き返した。

「だから、俺ここに来たばかりで、まだ何も分からないから。あの、何かあるんだろ、契約っていうか・・」

「・・何の話?トシ君、今自分がどこにいるのか解ってなくない?」

 水着美女は地面を指差して訊いた。

「わかってるよ。ここ、天国なんだろ」

 水着美女ばかりか、涙に咽んでいた年配女性までもが、腹を抱えて笑った。


 俊夫は罰が悪そうに二人の姿を見ていた。

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