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依存するなって言われ続けたことがあるから、いま再確認する必要あり。

(先の日曜に書き始めたものです。)
こんなピーとの朝一メッセージをやり取りできただけで気分がよくなるようじゃ、だめだ!彼に依存している!って思うんだけど、ま、いいや。今日は日曜日です。
彼の電話番号が新しくなったので、WhatsApp新しくなったんだけど、アイコンは初期のまんまだった。で、アイコンに写真を入れてよーってお願いしてて、一昨日かな、ちょうどなんだかんだメッセージしてた時にアイコンに写真入れてほしいなーとお願いしたら、直ぐに写真をアイコンに入れてくれた。ちょっと前のだけれども、男前なー、好みなー写真!

思ったけれど、ピーはコリン・ファース系なんだなぁと。茶髪じゃなくって今は白くなりつつある金髪。その写真みて、あぁこの人本当遊びまくった、おっとそれは人聞き悪いか、もてまくっただろうなぁ、って思った。

タイトルとは違う内容から始める私です・・・。

テーマ「依存」も私が克服すべき元夫からの洗脳なんだけれども、私は自分では独立心旺盛と思っている。誰かの意見に左右されることはそうない。ひと昔前だったら、自分で経験したことでないと信じない傾向にあったし、旅行の計画もどこで何を食べるなどすべて私が決めて家族を先導してた。私に依存性が高い、などといったのは、あの元夫のみです。
彼の言う依存とは、ちょっと意味合いが変わってたんではないかと、今も理解できてない。する必要は全くないけど

車を私にあてがってきて、Garrrr一人で好きなところに行けばいい、と。決して僕と二人、ではない・・・。自由に行動してほしい、としょっちゅう言われていた。つか、自由に行動してたし。

あー何か例を出せないかと思ったけど、奴との嫌な思い出が私の中でキレイにイレースされてて全然思い出せない。

でも、「人に依存してはいけない」だけが確固として残っててトラウマになってるんだよね。彼の理解の依存は、一般と違っていると感じていたので、いつも、依存なんかしてないけどなーと一人悶々とし、一人で何でもしちゃうようになってた。
今もどこからが依存なのかがわからないから人にお願いしたり、聞いていいかが分からない。同じく、ピーからの連絡に喜ぶ自分を諌める。こんな他人からのアプローチで一喜一憂するな、と。

でもさ、考えてみると、人間が社会で感じる喜怒哀楽って他者との関連性の中で受け手となって感じることは多々あるよねぇ。もしかして、なにかしてもらって嬉しいと感じることに罪悪感、感じることなんてないんじゃ、というところまで回復してきた。

私の理解する依存は、それがなきゃだめ、な状態。依存対象がなければ、生活に支障が出ること。動けないこと。
ピーから連絡なくて、ちっと思えども、仕事が手をつかないわけではないし、友達や知り合いとご飯行っちゃうし。

だから、私は自分に、ピーから連絡あって嬉しくなることを許したい。