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ローレンス・シルバーマン(2) ー ブラジャーよさらば !ー

オイラが中学生の頃(1960年代末)なんて、アメリカがベトナム戦争にのめり込み、フランスでは社会変革を求める5月革命が、そして日本では全共闘運動が暴れるという物騒な時代。

70年代、マス・メディアはオイラたちの気質を、無気力・無関心・無責任三無主義と呼び、オイラたちの世代を無共闘世代とかしらけ世代と呼びました。

でも、もし洒落た言い回しがしたいのなら、過激を好まない穏健世代、あるいは中庸(ちゅうよう)世代と呼ぶべきじゃないでしょうかね(笑)。考えてもみてくださいよ、毎日毎日、激辛の食べ物を食べさせられていたら、次はあっさりしたものを食べたいって思いません? それなのに、マスコミったら「お前たちは軟弱だ」ってオイラたち世代に無気力の烙印を押すのですから(笑)。

ローレンス・シルバーマンが指摘するように、70年代以降のマス・メディアの偏向報道は目を覆いたくなるほど。

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ロック少年だったオイラ、約40万人を集めた野外コンサート=ウッドストック・フェスティバルには心踊らされました。でも、カウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベンドなんて受けとめ方には違和感を抱いていました。もちろん、ヒッピーを中心としてアメリカ西海岸に始まったサイケデリックに共感などできませんでしたし。

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当時、違和感を持ったのが「女性上位」という言葉。別にセックスの際の体位(笑)ではなく、英語の female dominance、female supremacy のこと。オノ・ヨーコさんが 73年に発表した「女性上位ばんざい」は女性解放運動を讃える曲。

1960年代後半、ウーマン・リブ(Women's Liberation)と呼ばれる急進的な女性解放運動が、アメリカ合衆国で起こりました。当時のベトナム反戦運動や公民権運動に連動する形で、性による役割分担に不満を持った高学歴主婦や女子学生を中心に「女である」という観点から世界を捉えなおそうとする運動。

この運動自体は大変結構なことであり、歴史は進歩するものであるというのであれば、この動きは必然だと思います。でも、残念ながら、やったことと言えば、魔女狩り焚書さながらの茶番劇(笑)。

男の視座で女性の美醜を評価するミス・コンテストは女性差別の象徴だとして中止。さらに、“女性の自由を圧迫する” 元凶だ として、「ブラジャーよさらば!」というスローガンのもとブラジャーを燃やすパフォーマンスが披露されます。ミス・アメリカ・コンテストの反対デモでは、ブラジャーだけでなく、ハイヒールも ”自由のゴミ箱” の中に捨てられました。 ”着用を強いられた“ ってことらしいですけど、被害妄想もここまでくるとお笑いです。

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もちろん、被害妄想の塊のような人は今でもいますよ。

これにたくさんのコメントを頂きました。

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コメントから「帰納」するに、女性のみなさんは、しなやかで、穏やかで、中庸を好むってこと。


かりんさんは、「差別は本当か?」「ひとくくりにされるのもイヤです」「一部の女性の気もします」「個で勝負だと思っています」「平等にならない」と言っています。

まったく、その通りだとオイラも思いました。被害妄想に囚われて人々をアジテート(agitatte)するのではなく、かりんさんのように問題点を抽出して、考えることが必要ですよね。

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さらに、えんちゃんも論理的推論について書いてくれました。

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「小論文を学ぶ」えんちゃんの力を借りながら、かりんさんの疑問に答えることにしましょう。

61ページ〜 を開いてください。

中心化された思考は、容易に普遍的な思考へと人々を導く。・・・・こうして普遍化された強力な“中心”と、それに比較して見劣りする“周辺”という図式は、支配と被支配の関係のもとに、永遠に変わらぬ真理とみなされるようになるのである。人々は、いつの間にかこうして普遍化された図式を「当然」のことと思うようになり、それ以外の思考を忘却してしまい、近代図式の片棒をかつく先兵となる、という次第である。われわれがいかにこうした図式にどっぷりとつかっているか、それをまずはしっかりと認識することから始めなければならない。なぜなら、いま人類が求めていることは、・・・そうした図式を問い直し、新たな少しはマトモな世界観を樹立することだからである。・・・いわば二元論は諸悪の根源といってもいい代物なのである。・・・近代的発想では、精神の主体として考えられるものは端的に「私」であり、その意味では「私」こそが世界の中心に存在することになる。世界は「私」を中心に動いている、と考えるのである。これは率直にいえば独我論である。ふつうにはこれを「自我中心主義」(エゴセントリズム)というが、「私」が世界の中心だという非常にわがままな考え方が、困ったことに近代の思想の中心にどかっと腰を下ろしているのである。・・・「思いやり」の心はじつは近代においては自我中心主義の裏返しの表現にすぎないということである。各自の自分勝手をそのまま許してはあまりにも社会が混乱するので、一方で他者への配慮ということも言わなければ釣り合いがとれないのである。おもしろいことに、ヨーロッパにおいて、「寛容」(tolerance)や「憐憫」(pity)や「共感」(sympathy)といった他者を思いやる感情が重視されはじめるのは、自我中心主義が唱えられるのとほぼ同時期である。・・・個人主義でいいじゃないか、という方向で進んでいったのである。・・・日本人のいう「思いやり」というのは、伝統的にみる限り、孟子的な「惻隠(そくいん)の心」であり仏教的な「慈悲」の心である場合が多い。・・・他者中心主義というほかなく、自我中心主義の裏返しの表現にすぎないヨーロッパ的思いやりとは訳(格)がちがう。・・・そもそも、人に迷惑をかけているかどうかを判断するのは結局は自分でしかない。ーだから、周りの人や将来生まれてくる人ではない!ーというごく単純なことが見えなくなっているのである。・・・この自我中心主義のあれわれである。

さらに、70ページ〜

自然が原子でできていれば、社会だって原子からできていると考えるのが当然の発想というものである。ホッブズ・ロック・ルソーなどは、基本的にそのように原子論的国家観をとるにいたった・・・これが基本的に個人主義につながる。「個人」という語は・・・「分けられないもの」の意味で・・・アトムが本来ギリシア語のアトモスに由来し、アトモスも「分けられないもの」という意味であったことと考え合わせると、個人主義原子論的発想のものに生まれてきたことは明らかである。原子論的社会観は、個人を原子とみなすため、平等原理を宗(むね)とする。原子に相互に区別がないように、個人にも区別がないものと考えるのである。一方、原子が互いに離れ離れであるように、個人も個々ばらばらであると考えられ、そこから個人の「自由」という発想とともに「個性」という発想が生まれる。20世紀ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメルは前者を「量的個人主義」と呼び、後者を「質的個人主義」と呼んだ。・・・平等をいうときには前者を、自由を語るときには後者を使うという具合に。・・・・近代は総じていえば個人の自由の獲得の時代であったが、個人が自由になればなるほど、社会全体は大衆化を余儀なくされ、大衆化はいつしか衆愚化となり、・・・人間というのはどうも間抜けにできているようで、最初からわかっていたものをここまで突き進んできて、ようやく「やっぱりダメみたいだね」というのである。

123ページ~

しばしば、「ノーマライゼーション」という言葉が使われることがある。・・・・モノへの配慮はもちろん必要である。だが、それにもまして、われわれ人間の側の精神スタンスというものが強く問われている。障害者を“普通” と違う人と見るのではなく、ごく自然に、そういうこともありうるとういう意識をもつことがなにより大切なことである。・・・目の悪い人がコンタクトレンズをするのが当たり前のように・・・意識のノーマライゼーションがなによりも重要だということである。ーなお、社会的弱者を、あくまで強者に対する弱者として規定し、それに保護や救済を与えるという発想は従来の福祉政策によく見られた。いま福祉政策が見直しを迫られているのは、そうした発想のいびつさが援助に依存する自立心のない弱者を発生させているという反省に基づいている。・・・社会からそうした人々に対する管理や保護の意識を取り除き、排除の論理を駆逐することは並大抵のことではないのである。

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131ページ~

高みに立つこと中心(権力)から語り出すこと、等が禁じられるポスト・モダンの倫理では、循環的な構造の内部“平地” からものをいわなければならいということは、以上からだいたいわかってもらえたのではないかと思う。この視点を端的に物語る現代の一つの問題としてジェンダーの問題をとりあげておこう。・・・・ジェンダー(gender)はセックスという概念と対概念をなしている。セックス(sex)とは、基本的には、男女の肉体的な性別のことである。男性にペニスと精巣が存在し、女性に乳房やヴァギナや子宮が存在すること、等のあくまで肉体的な性差にもとづく性別概念である。一方、ジェンダーというのは、そうした肉体的な性差とは直接関係することなく、男女の社会的・文化的な差異に基づく「男」「女」という性別のことである。「男らしさ」「女らしさ」という場合、それは直接肉体を意味することなく、「強さ」や「弱さ」や「能動性」や「控えめさ」などを文化的にーソシュール流にいえばシニフィエとしてー意味するように、ジェンダーとしての「男」や「女」は、歴史的・社会的に形成されたものである。さて、男女のジェンダーが問題として映る場合、何が問題とされているのかというと、ジェンダーに伴う「男」「女」というシニフィエのなかに、たとえば、「男」=「外で働く」、「女」=「内で家事」といった、女性の社会的自由を拘束するようなものが含まれていることである。しばしば男女差別の問題を取り上げる際に、○○からの「解放」とか○○の「束縛」といった概念が使われるのは、そういう理由による。要するに、現在までの社会(=シニフィエの共同体)では、端的に男性が中心であり、女性はその周辺に押しやられて「自由」が奪われていたという認識が根底に存在するのである。そこで、新たに、「男女共同参画社会」という概念にもとづいて、女性に自由を与えて、男中心の社会から脱中心化したポスト・モダンの倫理を確立しようというのである。ここにも、近代主義(モダニズム)の批判が見え隠れしていることはお気づきだろう。・・・・したがって、今後の社会のありようを考える場合には、中心化、権力化を脱色して、ことがらをフラットな地平で考えなければならない。男が“上”で女が“下”、とか、あるいはその逆を考えるような視点は端的に禁じられている。もちろん、そうだからといってジェンダー批判が即、性差を認めないとか、異性という意識を抹消するということを意味するわけではない。セックスとしての性別がともなっている以上、ジェンダーとしての性別は端的に存在するし、またそれが異性の魅力ともなっている。男がズボンをはき女がスカートをはくことを禁じて、男女一律「ズボンをはけ」ということにはならないし、女は「化粧してはダメ」ということにもならない。ただ、ときとしてジェンダーを強く読み込むことが差別の温床となることがあるので、その点については、解消しようというまでである。さて、どこからが差別でどこからが差別でないか、それが明確にならない限りジェンダーをめぐる議論は終結点を迎えないだろう、という予想がありうる。いたずらにジェンダーの認識が “差別” 的であることを強調することは、男女のあいだに垣根をつくることになり、互いに疑心暗鬼になるだけだ、という批判もありうる。・・・・たしかに普遍的な基準があれば、困難は解消され、気楽といえば気楽である。だが、根本的に考えれば、そうした普遍的基準云々という議論のしかたそのものがそもそも近代主義(モダニズム)そのものであり、それがいま疑われている以上、普遍的基準を志向する姿勢も問題にならざるをえないのである。先に、「ことがらをフラットな地平で考えなければならない」と述べたが、セクハラかどうかという判断こそ、まさにフラットに考えなければならない問題である。つまり、具体的な男女が、男であり女であるという性別だけを理由にどちらかが中心になったり権力を誇示したりすることなくフラットな意識を持って相手を尊重し合うことが求められている。だから、相手に対して多少ムカッとしたとしても、だから即「人権侵害だ」「裁判だ」、とすぐに権威や権力に頼るような姿勢を放棄することが大切なことである。ムカッとしたならば、相手をその場でたしなめればそれで済む(場合が多い)。また、そういう姿勢こそが真の平等意識を実現する最短の方法であることを認識することが大切である。人権だ、普遍的権利だ、と普遍化を求める思考は、この問題にはまったくふさわしくない。この点に関して、フェミニズムの旗手上野千鶴子氏は、概略次のように語る。ーもともと女性というマイノリティの特殊性(それゆえその要求の状況的な被規定性)から出発するフェミニズムは、特殊なものがその特殊性を維持したままで相互に承認し交渉しあう境位をめざす思想であって、これを「人権」や「自己決定権」などの「普遍的な概念に依存させ」ようとするフェミニズムには非常に大きな欺瞞があり、「危険性抑圧性がともなう」。(上野千鶴子「マイノリティとしてのフェミニズム」)

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また、えんちゃんは書いています。

言葉は物事の一面しか表現することができないのです。それはサイコロのようなものです。表現されたものが「2」なら、他の面には何が書かれているのか。それを、見えている面が2なんだから、「このサイコロは2でできている」と考える人はいないはずです。
今、言葉として現れたものがこれならば、裏から見たらどんな事実が見えるだろう、横から見たらどんな事実が見えるだろうと想像力を働かせましょう。そして、そこから自分なりの意見を導き出しましょう。その意見が事実と照らし合わせたときに齟齬がないか、怠らずチェックしましょう。齟齬が見つかったなら、その事実から目を背けるのではなく意見のほうを修正しましょう。

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想像力がたくましすぎるのも考え物です。事実と照らし合わせたら、ブラジャーが 圧迫するのはであって ”女性の自由” ではありません。それに、ブラジャーの “着用を強制” するどころか、はずしたいのが男の本性ですから(笑)。

要は、ブラジャーを捨てたい人には捨てる自由が、ブラジャーをしたい人には身に着ける自由がある社会が、フラットな社会って言うんじゃないかなぁって。

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