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宮家(2)

前回、竹田恒泰さんが伏見宮(ふしみのみや)の系譜と、ご紹介しましたが、今日は、伏見宮家の話。


伏見宮家の何がすごいかといえば、戦後、皇籍離脱した11宮家の当主すべてが邦家(くにいえ)親王の末裔だったこと。ただし、血縁が天皇家とつながるには10代以上遡(さかのぼ)る必要がありますけどね。

邦家親王は、北朝第3代崇光天皇の14世孫にあたります。1841年、伏見宮を相続し第20代となりましたが、翌1842年、第6王子睦宮(よりのみや、後の貞教親王)に家督を譲り隠居。しかし、1864年2月7日に伏見宮を再継承し、第23代となります。


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14世孫とか第23代って、伏見宮は一体いつの時代から存在しているのか、おさらいしてみましょう(笑)。

天皇家とは別に世襲親王家(せしゅうしんのうけ)が登場するのは鎌倉時代。第90代亀山天皇の皇子である常明(つねあきら)親王の常盤井宮(ときわいのみや)が最初。その後、木寺宮(きでらのみや)伏見宮などが生まれますが、室町時代以降も残ったのは伏見宮のみ。

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後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏が京都に入ると天皇は比叡山延暦寺に逃走します。和議に伴い三種神器は後醍醐天皇から尊氏側に引き渡されますが、後醍醐は幽閉されてしまいます。その後、吉野に逃れた後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)と光明天皇(北朝・持明院統)の二人の天皇が並び立つことに。これが南北朝時代の始まりです。

1351年、足利尊氏が南朝に帰順し、皇統が南朝へ統一されます(正平一統)が、翌年には破綻。南朝方が京都から撤退する際に北朝の光厳光明崇光(すこう)天皇らを吉野に連行。そこで、尊氏の嫡男・義詮崇光の弟を神器も親王宣下もないまま後光厳天皇として即位させますが、北朝の権威は失墜。

拉致されてから5年が経ち、崇光は帰京するのですが、後光厳は正統性のないまま天皇の座に居座ります。さらに、14歳の第2皇子を後円融天皇とし、自らは上皇になりました。ただ、後円融と将軍義満は母が姉妹でしたから、朝廷の政務は従兄弟の義満が統べる(すべる)ことに。そして、上皇となった後光厳は孤立したまま3年後に崩御。

1392年、南朝第4代の後亀山天皇から三種神器を手に入れた義満は、後光厳の孫の後小松(北朝6代)を第100代後小松天皇とし、南北朝の合体を成し遂げます。

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息子である栄仁(よしひと)親王を皇位につけることがないまま北朝3代の崇光上皇は崩御。庶家となった栄仁親王は遍歴を余儀なくされます。一時、有栖川山荘に移り、有栖川殿と称することもありましたが、1409年に皇室累代の御料である伏見に戻り、伏見殿と称されます。そして、この伏見御料が子孫に伝領され、伏見宮家を名乗ることに。

ただ、物語はこれでは終わりません。

第101代称光天皇は男児をなさずに崩御したため、ここに後光厳の男系は絶えてしまいます。1428年、皇統を継ぐ立場にはなかった伏見宮貞成(さだふさ)親王でしたが、晴れて102代後花園天皇となりました。なんと、70余年ぶりの崇光院(すこういん)流の復活です。

8親等以上離れた続柄での皇位継承は「称徳天皇 → 光仁天皇」以来、53代(658年)ぶりのこと。ちなみに、749年に即位した女帝・第46代孝謙天皇天武天皇の皇統。758年に重用していた従兄の藤原仲麻呂の進言により、一旦は舎人親王の子(淳仁天皇)に譲位したのですが、764年に重祚して第48代称徳天皇となります。

次の光仁天皇天智天皇(中大兄皇子)の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6皇子で、桓武天皇の父。だから、天智天皇~桓武天皇の皇統が今日の皇室に連なっているってわけ。

宮家って、どうしてこんなに面白いんでしょうね。思わず、「みやけ」て しまいました(笑)。

それでは、また次回。

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