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一人旅4日目「ペンフレンドフロム酒田」

昨日は夕方から夜中まで飲み、宿につくと寒さと酔いと激しい頭痛に苦しみながらウシガエルの様にひっくり返っていた。その割にはとても目覚めが良い朝だった。

4日目は山形は酒田駅へ向かう予定。
電車時間の都合でチェックアウトの
時間より早く宿を出発する事に。

最後に旅館のママに挨拶したかったが、何処にもおらず暫く待ってみたけど現れなかったので、結局は逢えずじまいだった。

山形に近づく程雪は激しくなり、寒さもより一層厳しくなった。雪景色の中、吹雪く雪を掻き分けて列車は進む。

途中の駅で電車に乗る友人を吹雪のホームから数人の友達が電車の窓越しに手を振り見送る光景があった。もし自分が当人なら恥ずかしさもあるが、こんな幸せな事はないだろう、、と他人事ながらに思った。

この旅では度々そういったドラマチックな場面に出くわす。これも冬のこの時期ならではな気もする。

山形県は新庄駅から目的地の酒田駅までの電車が運転見合わせとなっており、代行バスの運行が行われていた。新庄駅につくなり「代行バス間も無く発車しまーす!」と言うアナウンスが。

代行バスを目の前にして乗り遅れ、吹雪の中ひとり取り残されたその姿は滑稽そのものなわけだが、そんな事はもう慣れたものである。

新庄で立ち寄った喫茶店での1枚。
WA ROCKは西オーストラリアで生まれた石に絵を描く自然遊び。それを秋田県は阿仁(あに)地域で広められた。
是非食べてみたかった天国ラーメンと地獄ラーメン。

代行バスで山道を進む事、約2時間。
なんとか酒田駅に到着した。

今回、何故山形県は酒田を目的地にしたかと言うと、何故それを知ったのかは定かではないのだけど、小学5.6年の頃から毎週聞いていた深夜ラジオがあった。それは「あたりとしおのあたりきしゃかりき」というラジオ番組だ。

基本的に馬鹿馬鹿しいトークで進み、
様々なコーナーが存在している
ちょっとえっちなラジオ番組だ。

その頃の僕と言えばそのラジオの虜になり、ハガキ職人として、毎週に投稿するネタ探しが生活の基盤となっていた。そのラジオで一時文通のコーナーがあり、お誘いを受けて人生初めての文通相手が山形県は酒田に住む同年代の少女だった。

実際に会った事はないが一度電話をした事があり、その時何を話したかは覚えていないけれど、山形訛りがきつすぎて何を言ってるか殆どわからなかった事は覚えている。

今となっては新潟と山形はそう遠くないと思えるのだけど、当時の小学生の僕からすれば遠い遠いどこか違う国の人と文通をしている様な気持ちで毎日家のポストに手紙が届いているか確認するのが楽しみで仕方がなかった。

彼女はハンターハンターが好きでよくその内容を送ってきてくれていた。しかし僕が住む新潟ではハンターハンターは放送されておらず、レンタルショップに足繁く通い観ていた記憶がある。

2002年に僕らが聞いていたラジオ番組は終了し、
時同じくしてどちらからかは忘れたけど、文通も途絶えていた。勿論、今更その娘に逢えるわけでもないが、折角だったのであの娘がどんな街で暮らしていたのかを覗いてみたかったのが酒田に来た理由だ。

今回の宿はなんと大正15年築の最上屋旅館。
宿泊客が僕しかおらず、のびのびと過ごす事ができた。

宿泊客が僕だけだったので部屋がランクアップしていた。

チェックインを済ませ、近くの渋そうな割烹屋に入り、熱燗と刺身盛り合わせを頂いた。創業50年ご夫婦で営んでおり、お店自体が実家でここで育ったと言う。映画「おくりびと」のロケ地でもあり、広末涼子が撮影に息子を連れていて、その相手をして割り箸でピストルを作ったりして遊んだ事が良い思い出だとママが語ってくれた。

広末涼子のサイン。

そして山形の郷土料理「納豆味噌汁」をすすめてくださった。どんなものか知らずに折角なので頂き、目の前にその味噌汁が届いた時その匂いに驚愕した。

ご好意で頂いたものを粗末にする事は大変に失礼な事だとわかりつつも、馴染みのない匂いに手がつけられず、全ての料理が納得味噌汁の匂いに支配されていた。

文通のあの娘もこの納豆味噌汁を飲んで育ったのだろうか。電話したあの時、受話器の向こうから納豆味噌汁の匂いでも香ってきていれば、今頃スムーズにお断り出来ていたかもしれない。

「きのこアレルギーで…」とやんわりお断りをさせて頂いた。あれは本当に申し訳ない事をしたなと新年早々に反省している。

そしてまた夜の酒田をとぼとぼと歩く。
酒田を歩いてみるとスナックが多い印象だった。どこのスナックも外には料金表がなく、重々しい扉で初見にはかなりハードルが高くなかなか決めきれずにいた。

そこで馴染みのある文字が酒田の夜に咲いていた。
それは”オカマバー”である。ここならたとえぼったくられたとしても何か面白い事があるのでは…と息を呑んで扉を開けた。

オカマバーのさくらママ。

すると白いドレスを着た北海道出身のママが「どうぞ〜」と快く受け入れてくれた。何事も意見をハッキリ言い続けて酒田で15年の老舗オカマバーだ。

話も面白く、凄く気が効いて、ファンが多いのも頷ける。その素振りを見ているとお客様は勿論スタッフ想いの人情に熱い印象だ。信用出来る。
客層は若く、全国から訪れる人も多いと言う。

ママは約20年前は今はあるかわからないけど、東京からオカマを全国に派遣され、各地のバーやスナックで働いくと言う事をしていたらしい。

「ちんぽは吸うのやめたけど、タバコはやめられないのォ。」と当時の話をしながら笑うママ

そうこうしてると続々と若者たちが続々と来店してきて、今時の歌をカラオケで歌っていた。
「まずい。合わせれる曲がない…」と思い、
自分がいよいよ”おっさん”になったんだなと痛感した。

苦し紛れにオレンジレンジの花を歌った。
ママ「これも大分昔の歌じゃのォ」
僕「2000年(正しくは2004年)くらいじゃないですか?僕が丁度深夜ラジオ聞いてて酒田の娘と文通してた頃です。」
大学生のお兄さん「俺が産まれた年ですよ!」
ママ「私はオカマ派遣で全国飛び回ってた頃よ〜」

そんな3人が酒田の夜に乾杯しているのだから面白い。人生はそれぞれである。

宿の門限23時が迫る頃。
お会計がとてもリーズブル過ぎてびっくりした。
「若い子からは金はとらない!社長からは取るけどのォ!」とママは寒い中出口まで見送ってくれた。

そして時は、オカマバー来店時に戻る。
入店時、ひとりの20代前半の常連客の女性がいた。
「なんで東京から酒田に来たの?」とその娘に聞かれ、事の経緯を話した。すると「わたしと文通する?」と言ってきた。正直世代的にもそうだが、文通をする様なタイプには思えなかったので驚いたままあれよあれよ話は進み、出逢って5分も経っていないのに文通が成立した。

そしてその娘は友達が待つ別の店で飲み直すとの事でお会計を済ませ「じゃっ!文通ね!」と指をさしたまま風の様に去っていった。その娘の母親もこのオカマバーの常連らしい。

この旅で「文通相手が出来ればなあ〜」とぼんやりと幻想を描いていた事が事実になり、そしてまたこの山形は酒田の地で約25年ぶりにまた酒田の人と文通が始まる。

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