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身体にまつわる実験

取り止めもないことを書くけど、どういう身体を持ちたいか、と考えるとき、いろいろな人の身体が思い浮かぶ。例えば村上春樹だ。彼は毎日10キロ走り、毎日原稿用紙10枚ぶん文章を書く。ただ継続すること、継続に特化した身体を作り続けること、それが最も遠くへ行く秘訣だと考えているかのように思える。

またあるいはHisashi Watanabe。彼は倒立家を自称し、ひたすら倒立を極め続けている。Twitterで彼の映像が流れてくると、つい釘付けになってしまう。人間の身体が「こう」なるんだ、という驚き。重力に逆らうということ。彼の動きは決して雑技団的な、あっと驚くような離れ技の様相を呈しているわけではない。ただ身体の可能性という静かな驚きがある。自分の身体もこうなる可能性があるのだという光を与えてくれる、この点において、この身体は啓蒙的な身体であると感じる。


似ていないようだけどある意味似ていると思うところで、2018年に70歳で逝去した首くくり栲象というパフォーマーがいた。1969年に初めて首吊りのパフォーマンスを行った彼は、身体への負担を懸念して一度首吊りを断念するものの、50歳を迎える前日に突然思い立って、毎日首吊りをすることを決意した。それ以来、誰もみていない時でさえ、一日に5回は首を吊っていたのだという。

彼は「なぜそこまでして首吊りをするのか」と記者に問われて、こう答えた。

オギャアと生まれた、あの瞬間なのよ。オギャアと生まれた時、死はなかった。死がない世界なんですよ。ずっと生き続ける世界、意欲の世界なんだ。

パッと開いた目のなかに死なんてない。だんだん大きくなるに連れて、それが出てくるだけで。生まれてきて、なぜここにいるのか。そこに興味があるから、続けられるんです。

https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/kubikukuri-takuzou

こういう身体になりたい、というと語弊があるが、少なくとも彼の身体に対して、私は畏敬を抱かずにいられない。

彼らはみんな、自分の身体で実験しているのだと思う。


そういえば数年前、私がいろいろと思い悩んでいた時に、Twitterで「実験してみなさい。私は失敗しましたが」とリプライをくれた人がいて、その言葉が妙に心に残っている。実験、という言葉。そうだ、どうなるかわからないから、どうなるかを知りたい、見てみたいのだ。そうでなかったら、生きている意味なんてない。

そしてまた、彼が「私は失敗しましたが」と書いたことは私を安心させる。彼は失敗してもなお私に実験するよう勧めた。つまり彼は、失敗はしたけれども、実験をしたことそれ自体については決して後悔していないのだろう。私はそう読み取る。

人生の失敗とはなんだろうか。選択を間違えることが失敗だろうか。あらゆるリスクを遠ざけるという選択は成功だろうか。

成功するか失敗するかに拘ることが、おそらくそもそもの間違いなのだ。実験をすること、その中にこそ喜びがある。これは國分功一郎が『目的への抵抗』の中で述べていたことにも繋がるだろう。

実験という行為はそもそも発端において成功への意志を含んでいる。成功を欲することこそが実験をする最初の動機である。しかし、ときに実験は成功という目的を超えて、実験そのものを自己目的化する。成功か失敗かよりも、新しい答えを自分の手で確かめるということの喜びに至る。


いま読んでいる『新たな距離』の著者である山本浩貴は、書くことを通じて自分の身体を実験している。書くことで立ち上がる私が肉体の手前側の私に宿り直すこと。また、書いている私の周囲の環境が書かれた作品に織り込まれ、作品から遡行的に見出される私と混ざり合って立ち上がり、私自身がその共同体の一部であるものとして事後的に発見されるということ。そのような「書くことの及ぼす力」を自覚しながら書くことによって、彼は自分の目指す行先を方向づけ、周囲の環境と相互に影響を及ぼし合い、意識的に自らの生を操作しながらも、最後にそれがどこへ辿り着くのかわからない旅(=実験)をしているように見える。

彼の実践と理論に惹かれるところはそこかも知れないと思う。批評理論に裏打ちされてはいるけれども、究極的にはそれが実験である、ということ。そういえば、今まで忘れていたが私は実験映画や実験音楽が昔から好きだった。どんなにわけのわからない内容になっていたとしても、そこに実験の意志を感じたなら、面白いと思っていた。


で、話を戻すと(いつから逸れていたのかわからないが)、私は自分の身体で実験がしたいと思い始めた。でも何をしたらいいかまだはっきりとわからない。私はずっと身体のことを考えているのに、実際に動かすのはあんまり得意じゃない。多分、ただ動かすしかないのだろうと思う。手でも足腰でも首でもなんでも。

詩を書くのも踊るのもギターを弾くのもみんなそうだ。そしてそこにはおそらくひとつの信がある。実験を始めるために必要な最初の信。そして、それがどういうものなのか私は知らない。問題は結局それだ。ただ『新たな距離』を読み始めたことで、言語表現についての思考は確実に影響を受けて変化するだろう。そのときなにかできることがあるかもしれない、という淡い期待もある。率直に言って、だから私は実験がしたいと思い始めている。


話を戻した(本当に?)ばかりだが、またちょっとずらしてみる。

目的が達成されたことにではなく、行為が今まさに遂行されているということに喜びを見出すこと。それを創作行為に当てはめるのなら、たとえそれが畸形の子であっても、それを生むことのなかに喜びや尊さが、あるいは他の何かが宿ると言えるだろうか?

創作の恐怖とは、まさに畸形の子を生んでしまうことへの恐怖ではないか。それでも実験をすべきだと言えるだろうか?

あるいは本当に多様化がどこまでも推し進められて、あらゆる存在が畸形になるのだろうか? 畸形でないものなんてひとつもなくなり、凡庸という概念は成立し得なくなるのだろうか? そこに希望を持ってもいいのなら、私はなにかの実験をする勇気が持てるかもしれない。


おまけの短歌。

人間の口に合うよう遺伝子を改良されたミカン おいしい

果物はほんらいこんなものだよ、とまずいみかんもうまそうに食う

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