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ぼっち大学生が不思議なサークルと出会った話。

※この物語は、実在の人物や団体とは関係ありません。
 フィクションです。

1.プロローグ

 "大学受験に失敗したらインドに行こう"

 高校3年の夏、僕は決意した。
 現代文のテストで引用されていた遠藤周作の「深い河」。この本を読んで、ガンジス川と共に生まれ、生き、そして死んでいくインドの人々と暮らしを共にしたい。と思ったからだ。

 無論、現実逃避である。
 人の一生を決める大学受験―と、世間では言われているが、全くそうは思えないイベントに対し、僕はささやかな反抗心を抱く。
 そのために遠藤周作と深い河を利用した。決められたレールの上を走る人生なぞ糞喰らえだ。ハリボテで作られた現代社会に迎合しなくても自分は生きていける。それを証明するために、自分はインドに行くのだ。

 もちろん、これも嘘である。
 インドに行くのは大学受験に失敗した場合の話だ。本当はレールを外れて生きる覚悟なんてない。
 "大学受験に失敗したらインドに行こう"
 この言葉は、社会と対決する無頼漢を演出しつつ、その裏では手堅い生き方に落ち着くことが示唆されている。そのうえ勉強に打ち込むことも回避できるという、まさしく三重の策であった。

 かくして、僕は勉強もほどほどに地元の大学に合格し、敷かれたレールの上を進むことになったのだ。もちろん、今もインドには行っていない。

2.遭遇

 大学に入って2週間が経った。
 構内を控えめな桃色に染め始めたソメイヨシノの花と同じく、新入生であふれるキャンパスも色めき立っている。昼の学食前広場でサークルの勧誘に奔走する上級生が大声を張り上げた。雀たちが飛び立つ。
 「今夜、テニスサークルの新歓コンパやります!興味のある方はとりあえずコンパだけでも参加していってください!」

 行くわけがない。
 テニスサークルはクソだ。真面目にテニスする奴なんていない。どうせみんなヤリモクのパリピばかりだ。僕は知っている。
 
 なぜならば、先週、すでに参加済みだからだ。
 新生活への期待を瞳一杯に輝かせた若い男女が、弾む声で言葉を交わす。手には初めて飲むであろう麦酒。まだ20歳未満のくせに。そう小声で呟く僕の手にも初めて握る中ジョッキの重さがズシリと応える。この重さは僕の筋力が貧弱だからというだけではない。僕の周りだけ話が盛り上がらず空気が重い。きっとここが地球上で一番重力が強い。

 そう、僕は入学早々にして、自身の陰キャっぷりを再認識させられることになったのだ。二度と興味のないサークルの新歓コンパなど行かない。
 そんなこと、今までの経験でわかっていたはずではないか。大学デビューで全てをやり直せると思っていた自分が恥ずかしくて死にたくなる。
 
 テニスサークルの勧誘を右から左に受け流し、複雑に蠢く人ごみの間を電気回路を進む電子のようにすり抜けて、午後からの講義のある学部棟に向かう。気配を消しつつも堂々と自然に速足で歩く。服屋で店員の追跡を振り切る時に学んだ歩法。誰にも気づかれることなく、僕は進んでいく。

 …はずだったが、人ごみを抜けたところで、目の前にチラシが差し出された。
 「新入生ですよね?」

 声をかけられるなんて想定外だった僕は小動物のようにビクッとして身構える。チラシを差し出したのは、黒髪ロングでマキシワンピース、化粧は薄めのナチュラルな顔立ち。テニスサークルとは真逆の雰囲気の女性だった。

 「サークル決まりましたか?」
 「私たちは、一緒に勉強したり、ご飯を食べたり、仲間づくりをするサークルです!」
 「週末に体験会をするので、よかったら来てみませんか?」

 穏やかな声で、しかし矢継ぎ早に問いかけ続ける女性に戸惑いながら、しどろもどろで受け答えしているうちに、体験会に参加することが決まっていった。
 
 大学生の本文は勉強だ。
 真面目なサークルで勉強に励み、学友を見つける集まりの方が、テニスサークルよりもよっぽど有意義に決まっている。しかもおいしいご飯も食べることができる。それに僕はギャルよりも清楚系の方がタイプだ。
 自分を納得させる理由を見つけ出し、微笑みかける彼女に手を振る。
 入学してから最も軽い足取りで、僕は午後の講義に向かった。

3.第一夜

 あっという間に土曜日がやって来た。
 まだ生活感のないアパートの鏡には、見慣れた自分の姿が映っている。才気を全く感じさせない地味で幼さの残る眼鏡男。最大限前向きに捉えれば朴訥で誠実で飾らない少年とも言える。いや、そう言おうと割り切った。
 近くの量販店Uで購入した一張羅、黒のブルゾン3,990円と黒のジーンズ2,990円を身に纏って玄関のドアを開ける。

 体験会のチラシに書いてあったのは、キャンパスから2km程離れたマンションの一室だった。
 インターホンを押すと、ドアが開き、チラシを配っていた清楚な雰囲気の先輩が迎えてくれる。
 「ようこそ!あなたの他にも、もう一人来ているの。今日はよろしくね。」
 
 清楚先輩に連れられてリビングの扉を開けると、中には二人の男女がテーブルに腰かけていた。男性が立ち上がった。
 「こんにちは!僕はリーダーの大沢です。大学生活にはもう慣れた?浮かれて遊んでばかりの新入生も多いけど、僕たちはちゃんと勉強もしながら、学生生活を送って行こう。」
 朗らかな笑顔とハキハキした声。大学生活で初めて信頼できそうな人に会えた気がして、こちらも思わず笑みがこぼれてしまう。チェックシャツにくたびれたジーンズという垢抜けない装いも、どこか親しみやすさを感じさせた。
 
 もう一人は僕と同じ、体験会に申し込んだ新入生のようだ。
 「わ、私は『アサカ』といいます。よろしく。」
 俯きがちの丸眼鏡の向こうでは、黒目が所在なく左右に動いている。きっと人と話すのが苦手なタイプ。ということは僕と同じだ。正直、ホッとした。

 窓から差し込む光が陰り始めてきた。
 春の夕方の淡い日差しの中で、リーダーの大沢さんと清楚先輩が窓側、僕とアサカが玄関側に並ぶ形で、体験会という名のレクリエーションが始まった。逆光になるリーダー大沢の顔が見えづらい。両家のお見合いというのはこういう雰囲気なのだろうかと、今後やってくるかもしれない遠い未来に想いを馳せる。

 レクリエーションといっても特別なことをするわけではなない。
 大学に入ったきっかけ、所属する学部、在学中にやりたいこと、不安に感じていること等を話し合うだけだ。
 友人ができるか不安だと口にしたアサカに清楚先輩が答える。
 「今日は私達二人だけだけど、メンバーは他にもたくさんいるわ。みんないい人達よ。私達、きっと仲良くなれると思うわ。」
 清楚先輩の優しい声が部屋に響く。横目で盗み見たアサカの表情からは硬さが消えていた。目も泳いでいない。彼女の様子を見て僕もここでやっていけそうな気がした。

 その後、僕は大学生活に抱える不安を吐き出した。勉強についていく自信がないとか、この4年間で何をすべきなのかわからないとか。言葉にして誰かに話すだけで、心が軽くなった。リーダー大沢は、焦らなくていいよと声をかけてくれ、全てを肯定してくれた。

 「もう暗くなってきたし、そろそろご飯にしましょうか。」
 僕らの「お悩み相談」が一息ついたところで、清楚先輩がキッチンに向かい、ガスコンロのつまみを回すと、温められた鍋からミルクのよい香りが室内に漂い始めた。シチューの香りだ。

 シチューとごはんに生野菜のサラダが手際よく盛られ、テーブルに並ぶ。
 "いただきます"で手を合わせてから食べる食事は、家族と囲むテーブルを思い出させた。本当は4月に入ってから毎日の孤独な食事が寂しかった。心許せる人達と語らいながらの夕食はシチューの温度以上に心をあたためてくれる。思わず少し涙ぐんでしまったけれど、多分、他の3人には気づかれなかったと思う。

 まだ肌寒さの残る4月の夜にもかかわらず、帰り道の足取りは軽やかだ。
 シチューを食べた後、次回は翌週の土曜日に集合することを伝えられ、今日は解散となった。もう暗いので、アサカを自宅の近くまで送って行くことになった。
 
 「なんか、思ったよりいい感じのサークルだったね。アサカさんはどう思う?」
 できる限り平静を装って声をかけたつもりだったが、女子と二人きりで夜道を歩くのはこれが初めて。緊張で上ずって声が妙に高くなってしまう。

 「あ、私もよかったと思う。正直、特に入りたいサークルが無くて困ってたんだ。でもここなら、とりあえず入っても問題なさそう。友達も作りたいしね。」
 「同感。先週、とりあえずテニスサークルの新歓に行ってみたんだけど、全然話合わなくてさ。テニスなんかやったこともないからしょうがないかもだけど。」
 「それ、もしかして『スマッシュ』ってサークルじゃない?私もあそこ無理だった!」
 「本当?よかったあ。僕だけじゃなかったんだ。なんか安心したよ。」

 帰り道で見上げた夜空にはおおぐま座がくっきりと見える。コミュ障は仲間意識からか、同類には心を開く。そう言っていた友人の話を思い出していた。アサカがコミュ障でよかった。そして僕も。

4.第二夜

 翌週、大学では本格的な講義が始まった。
 ろくにテキストの説明もせずに、教授が発した言葉が大教室を漂う。意味を掴もうにも、ゆらゆらと空を舞うその言葉が捉えられない。翻弄されているうちに次の言葉、また次の言葉が放出される。まるで紙吹雪を箸でつまむゲームだ。捉えたと思っても、指の隙間からすり抜けていく。気がつけばスピーカーから音割れしたチャイムが鳴り響き、90分の講義が終わっていた。

 人気の少ないベンチ。
 僕は昼食の菓子パンをほおばって虚ろな眼で空を見上げる。
 勉強についていける気がしない。先輩たちから勉強のコツを教えてもらえれば、何とかついていけるかもしれない。いや、それよりも、友人を作ってノートを見せてもらえれば、簡単に単位を取ることができるかもしれないな。などと、調子のいい妄想が脳内を埋め尽くす。もちろん、僕には頼れる先輩も友人もいない。それどころか他人との繋がりすらない。
 僕の心の拠り所は次の土曜日の勉強会しかなかった。

 土曜日の昼下がり。一週間ぶりにまともな会話を交わすことができる期待と喜びに思わずスキップでもしたくなる。それくらいに浮かれた足取りで、僕は先週と同じ、大学からほどほどに離れたマンションの一室に向かった。楽しそうにおしゃべりを交わす男女のグループと途中ですれ違い、何となく微笑ましい気持ちになる。
 
 マンションの一室に入ると先週とは少し雰囲気が異なっていた。
 清楚先輩とリーダー大沢のほか、5人の男女、そしてアサカがリビングのテーブルを囲んで立っていた。アサカと目が合い、お互い中途半端な会釈をする。人数が多いせいか圧迫感を感じた。

 先週はいなかった5人が自己紹介を始めだした。誰もが教室の隅っこでおとなしくしていそうなパッとしない相貌をしている。まあ、僕に言われたくはないだろうけど。
 みなこのサークルのメンバーで、今日は彼らを含め、本格的な勉強会を行うとのこと。アサカに目をやると、僕と同じで所在なさげな面持ちだ。
 
 改めて全員の自己紹介が終わったところで、清楚先輩が声をかける。
「今日は皆でDVDを見てから、その内容について話し合いましょう!」

 DVD?
 予想をしていなかった単語に、戸惑いを覚える。
 勉強会に来てDVDを見るとは思わなかった。映画か何かだろうか。
 
 6畳一間の狭い和室に、9人が2列になって座る。
 春の陽気に加えて人の密度と吐息が、部屋にこもった熱を上昇させる。
 隣のアサカ、後ろの清楚先輩との距離が近い。
 胸の高鳴りを気取られないよう、必死に目の前の画面に集中した。

 20型液晶の小さな画面に映し出されたのは「スクールウォーズ」という昭和のドラマだった。熱血教師が校内暴力が蔓延する荒れた高校に赴任し、問題児ばかりの生徒を更生させながら、弱小ラグビー部を全国優勝に導くというストーリーだ。
 
 時代のギャップを感じさせる部分は多々あるものの、スポーツを通じた青春ドラマとしての出来はよく、純粋に楽しめる作品だった。
 最初は教師に反発していた不良少年たちが改心してラグビーに打ち込む姿には心打たれ、仲間が病に倒れるシーンには涙を堪えた。後ろの清楚先輩はよほど熱心に見入っているのか、盛り上がるシーンでは身を乗り出し、先輩の肩や腕が僕の身体に触れた。体の奥からこみ上げる熱は、春の陽気のせいか、ドラマのせいか、それとも清楚先輩のせいだったのかはわからない。

 2時間ほどのドラマを見終わった後、9人が円になって感想を話し始めるフェーズになり、最初の発言者として僕が指名された。
「不良少年たちが、熱血教師の真剣さや誠実さに感化され、真面目にラグビーに打ち込むようになる姿に、僕も心打たれました。」
 次の発言者はアサカだった。
「最初はバラバラだった部員たちが、心を一つにして全国制覇に向かって行く様子を見て、いい仲間達だなあと感じました。」
 他のメンバー全員がうんうんと頷く。
 次に、大沢リーダーが口を開いた。
「このドラマのいいところはね、みんなが『正しく』生きているからなんだよ!」

 ???
 唐突に現れた『正しく』生きるという言葉に、僕は違和感を感じた。
 口をはさむ暇もなく、大沢リーダーは言葉を続ける。
「正しく生きるには、何をすべきだろうか?」

「何が正しいことかを見極めることではないでしょうか?」
「正しい人の生き方を学ぶべきではないでしょうか?」
「正しく生きる仲間と共に歩むことではないでしょうか?」
 先週はいなかったメンバー達が、畳みかけるように発言する。

「いい意見だ。君たちはどう思う?」
 指を真っすぐに伸ばした掌を向けながら、大沢リーダーの視線が僕らに突き刺さった。

 見渡すと、アサカを除く全員が血走った目で僕を見ている。
 助けを求めるように清楚先輩を見る。彼女の表情はいつもと同じく微笑を讃えていた。だが、その目は笑ってはいない。
 こういう時の対処法は一つしかない。僕はゆっくりと口を開いた。
 「確かに今まで正しく生きるとは何かなんて、考えたこともありませんでした。大学では哲学の講義もあるので、自分の生き方についても見直してみたいですね。」
 今までも幾度となく使ってきた、身体に染みついているメソッド。同意と共感だ。一旦自分を空っぽにしてから他者を全肯定し、共感する。決して踏み込み過ぎないことがミソだ。相手と打ち解けることはないが、不快にさせることもない。

 続いてアサカが口を開いた。
 「…私はこのドラマを見て『正しさ』とかは、特段意識しませんでした。だけど、そんな風に深く物事を見ている皆さんはすごいと思います。」
 自分を下げて相手を上げる。無難な受け答えだ。僕はみんなが気づくかどうかわからない位、時間をかけてゆっくりと頷く。

 大沢リーダーは表情を変えずに口を開く。
「ありがとう。2人とも正しく生きることについて、よく考えているね。合格だ。これまでの体験会を踏まえ、2人を正式にクレインに受け入れようと思うけどどうかな?」

「異議なし!!」
 アサカ以外のメンバーが声を合わせ、示し合わせたように答える。
 この茶番は何なんだ。それに『クレイン』とは一体何なのか?僕の疑問を見透かしたように、ニヤリと笑った大沢リーダーが言う。

「C・R・A・N・EでCRANE(クレイン)だ。僕たちのサークルの名前だよ。鳥の『鶴』という意味なんだ。」
やはり目は笑っていないまま、微笑みが貼り付いた表情の清楚先輩が続く。
「鶴は日本の象徴的な鳥よ。日本古来の伝統や正しさを守り続けるというイメージからとっているの。そして…」

「鶴は一生パートナーを変えないの。選んだ人と生涯寄り添うのよ。決して切れない絆という意味もあるのよ。」
 清楚先輩の表情が崩れ、恍惚としながら言う。人によっては妖艶と感じるかもしれないその顔は、僕には薄気味の悪さを感じさせた。
「これから正式な入会の手続きを行う。アサカさんはここに残りなさい。君は僕と一緒に隣の部屋に行こう。」
 大沢リーダーに手を引かれ部屋を出る時に、アサカと目が合う。その瞳は困惑と少しの怯えをたたえていた。

5.最終夜

 マンションの部屋の玄関を出て、外廊下を通り、隣の部屋のドアが開かれる。まさか、二部屋借りているとは思わなかった。先ほどまで感じていた体の熱は消え去り、背中を流れる汗の冷たさは体を震わせる。

 全く同じ構造のもう一つの部屋のリビングのテーブルには一人の男が座っていた。
 どう見ても学生ではない。メガネをかけて頭がぼさぼさの三十歳前後の男性。大沢リーダーが彼に声をかける。
「先生。新規入会者を案内しました。」

 いつの間にか入会することが決まっている僕を一瞥し、先生と呼ばれた男が立ち上がり握手を求めてくる。僕はできる限り不信感を表に出さぬよう右手を差し出す。
「僕たちの仲間にようこそ。一緒に正しい生き方を求めていこう。」
 見た目からは想像できないような強い力で手を握られる。
「じゃあ、入会の申込書を書いてくれないか。これを書いたら、早速先生から
正しく生きるためのヒントを一緒に聞こうじゃないか。今日はそれで終了だ。」 
 そう言って大沢リーダーが机に入会申込書を置いた。当然のことながら氏名、住所、電話番号が記載項目となっている。
 僕がこれまで彼らに伝えたのは苗字と電話番号だけ。直感的に、住所を書くのはマズいと感じた。住所を教えてしまったらこの人たちはきっとどこまでも追ってくる。

「すみません。今日すぐに入会の申込をするとは思いませんでした。今、他にも入りたいサークルがあり、最終的にどこに入ろうか迷っています。もう少し考える時間をもらえないでしょうか。」
 咄嗟に口に出た言葉に大沢リーダーはあからさまに目を細める。
「さっきの勉強会で正しく生きることの大切さに気づいたはずだ。君自身、『自分の生き方についても見直してみたい』とも言っていたじゃないか。何を迷う必要がある?」
 適当に喋っただけの言葉をよく覚えている。まるで検事か裁判官のようだ。
 先生と呼ばれた男も割って入る。
「君のことは大沢君から聞いているよ。多くの新入生は遊びにうつつを抜かしていて、正しい生き方と向き合える人はほとんどいない。君は他の学生とは違う。ここで学ぶべきなんだ!」
 先生の真っすぐに見据える視線から僕は目を逸らした。
 熱のこもった心地のよい言葉だ。自分のことをこんなにも認めてくれるなんて。心が動かないと言ったら嘘になる。

 正直、怪しいサークルだが、仲間が作れて勉強ができるのならば、ここでもいいのではないか。他のサークルだってテニスとか軽音楽とか英会話だとか、どれも活動とは直接関係がないコンパを定期的に開き、飲み騒いでいると聞く。得体の知れなさでは似たようなものだ。
 入会してもいいかもしれない、と、心の中のもう一人の僕が囁き始める。今まで知らなかった新しい世界に踏み出すのも経験だ。何事も先入観で決めつけずに歩み寄ってみようではないか。

「わかりました。ちなみにこのサークルでは正しい生き方を学ぶためにどんな事を勉強するのですか?」 
 先生と呼ばれていた男が、笑みを浮かべながらうんうんと頷くような動作をする。
「それはね。全て聖書に書いてあるんだ。何が正しくて何が悪いかは人間より高次の存在である神様が規定している。だから、みんなで聖書を読み解くための勉強をするんだよ。」
 
 前言撤回。これはサークルではなく明らかに宗教団体だ。
 ひきつった僕の顔に気づいたのか、大沢リーダーがしゃべり出す。
「いわゆる新興宗教のようなものではないよ。聖書は世界で20億人のキリスト教徒が読んでいる。無宗教の日本人には違和感があるかもしれないけど、海外では聖書の内容をベースに、哲学や言語学を学ぶことは当たり前の事なんだ…」
 その後も、大沢リーダーの語りは永遠に思えるかのように続いていく。要約すると聖書や神様について学ぶことは世界的に見れば普通であること。それらを学ぶことで正しく生きられるということ。終わりのない話を聞かされているうちに、意識が遠のきそうになってくる。
 部屋の奥の時計に視線だけ動かすと、すでに22:00を回っている。今日16:00にここに来てからすでに6時間拘束されていた。夕飯は食べさせてもらっていない。大沢リーダーの話は尽きることがない。僕の集中力と思考力は明らかに低下してきていた。

 「で、正しく生きることの大切さはわかっただろう。入会申込書をかいてくれないか?」
 大沢リーダーのこの言葉はもう2回目となる。
 ここで「もう少し考える時間をくれませんか?」と答えると、再び聖書と神様の勉強をする正当性をエンドレスで説明される。このまま付き合い続けるのはもう限界だった。
 
 「よくわかりました…。すみませんが、23:00に自分の部屋に友人が来る予定なので、一旦家に戻ってもいいですか。明日、改めて申込書を書きます。」
 死んだ金目鯛の目でそう言う僕を見て、先生とリーダーは笑った。
 「わかった。明日は朝からここにいる。朝8:00にここに来るように。」
 僕は疲労困憊の放心状態でマンションを出て、夜の闇に放り出された。小雨が当たりはじめていた。

 無論、友人が来る予定など嘘である。そもそも友人自体いない。
 それでも架空の友との約束を自らに信じ込ませるかのように、僕は古びたスニーカーでアスファルトを蹴って全力で走った。
 眼鏡に当たった雨は乱視で歪む信号機の光をさらに滲ませる。万華鏡のように青・黄・赤の光で満たされる視界には現実味が無い。今までいたマンションの一室と同じくらいに。

 年季の入ったアパートのドアを開けて一番にすることはPCの電源ON。まだスマホのない時代、僕が神様とか聖書よりも信じていたのは、ネットに集まった人々の意志であり、匿名掲示板の書きこみだった。そこには信託があった。

 "「クレイン」は新興宗教のかくれみのサークル"

 薄々わかってはいたものの、改めて事実を突きつけられると、全身から血の気が引くような思いに駆られる。信託は続いていた。

 "一人で歩いている新入生が声をかけられる"
 "1回目ではおいしい食事を提供して安心させる"
 "2回目には「ヒーロー」を見せられる"
 "1対多数でプレッシャーをかけ強引に加入させる"
 "加入するまで長時間拘束される"
 "女性メンバーは積極的にボディタッチをしてくる"

 完全に一致している。
 孤独な学生を加入させるためのマニュアル的な対応。大沢リーダーが僕を褒めてくれたのも、まるで好意のように錯覚していた清楚先輩の素振りも全て嘘、嘘、嘘だった。
 引いていた血の気が今度は頭に集まり始めた。馬鹿にされ、侮られたことに対する怒り。時計の針は0時を回ろうとしていたが、僕は携帯でリーダー大沢に電話をかけた。

 「大沢です。どうしたの?」
 「すみません。もっと大学生活を楽しみたいので、クレインとは別のサークルに入ろうと思います。それではまた。」

 電話を切った直後、その番号は着信拒否に設定した。
 ふーっと大きく息を吐きながら、ディスプレイの信託を読み続ける。

 "加入後は教団の活動に強制参加させられ、まともな学校生活は送れない"
 "自分の意志での結婚はできず、教団が決めた相手と結婚させられる"

 生涯一人のパートナーと寄り添い続けるクレイン、鶴のつがいが大空を自由に舞う姿が脳裏に浮かぶ。クレインのメンバー達は自由に舞うことができるのだろうか。
 信託に一通り目を通した後、ベッドから天井を眺めて物思いに耽る。
 瞼を閉じるとアサカの面影が浮かんできた。
 彼女は一体どうしただろう。僕と同じく上手く抜け出せたか。
 それとも…

 どちらにせよ、僕はアサカの電話番号すら知らない。彼女の無事を祈りながら僕は眠りに落ちていった。

6.エピローグ

 うだるような暑さの日が続く。
 5月の平均気温は毎年上昇傾向にあり、今年は史上最高らしく朝から気温はもう20度近い。
 全く迷惑な話だ。高層ビルの影に隠れながら、ネクタイを緩めシャツの上から2番目までボタンを外し、僕は駅に向かって速足で歩く。
 都心から程よく離れた住宅街にある駅には、多くの人が吸い込まれていく。
 
 駅の手前で声を張り上げて冊子を配り続ける一団がいた。
「おはようございまーす!とてもためになることが書かれている本です!ぜひ手にお取りくださーい!」
 
 善良そうな笑顔の女性たち。
 通勤ラッシュの慌ただしい時間に冊子を受け取る人は誰もいない。
 僕は彼女達に軽く会釈しながら素通りする。
 ちらりと表情を伺ったが、そこにアサカの姿はなかった。

 大学は10年前に卒業した。
 クレインに断りの電話を入れた後は映画同好会に入り、映画好きの友人達と充実した時間を過ごすことができた。当初はついていけなかった勉強にも次第に慣れ、無事、4年で卒業し都内の企業に就職した。 
 平凡だがそこそこに幸せな人生。

 きっとアサカも同じような人生を送っているに違いない。
 あの日から自分にそう言い聞かせ続けてきた。
 それでも駅前でチラシを配る女性を見かけると、ついアサカではないかと確認してしまう。

 電子音のベルが鳴り響き、レールの先へと電車が動き始めた。
 正しい生き方は、今もわかっていない。

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