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Noism×鼓童「鬼」公演を見て感じたこと

 令和5年12月16日、新潟市のりゅーとぴあでNoism×鼓童による公園「鬼」を見てきました。
 Noismはりゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館を拠点に活動する、日本初の公共劇場専属舞踊団。鼓童は佐渡を拠点とする和太鼓集団。新潟をルーツとし、国際的に活躍する両者がコラボレーションした作品が今回の「鬼」です。

 私は昨年から新潟市に住んでいながら、今までNoismも鼓童も公演を見たことがありませんでした。
 地元を拠点として活動し、芸術文化を根付かせようとしている人達を一度見てみたい、いや見なくてはならないと思い、本公演を見に行ってきました。
 私は舞踊をこれまで鑑賞したことがありません。太鼓の演奏も同様です。そんな私が初めて体感したNoismと鼓童の世界を以下に綴ります。

 800席程を収容できる劇場に入ると、席はほぼ満員でした。
 話し声がざわざわと賑やかな開演直前、照明が落ちて暗くなると、物音はピタリと止み、一転、緊張感に包まれます。ごくりと唾を飲み込む音まで聞こえてきそうな静寂の中、ゆっくりと幕が上がり、ステージ左側には白い制服の長身の軍人、ステージ上には何枚もの襖が現われました。

 襖が開き、一つ目の作品「お菊の結婚」が始まります。
 この作品は、オペラとしても有名なピエール・ロティの小説「お菊さん」をモチーフにしたものです。長崎にやって来たフランス海軍の士官が芸者を見初め、結婚しようとする物語。男の嫉妬、モノとして扱われる芸者の悲哀、離別、そしてその中でも失われぬ愛が描かれます。

 「お菊の結婚」は鼓童は出演せず、Noism単独での作品となります。
 音楽はストラヴィンスキーの「結婚」。バレエ音楽として作曲された本作は舞踊にも違和感なくハマるだけでなく、ストラヴィンスキー特有のトリッキーさが「お菊さん」の持つ不穏さとも合致していました。
 不安を想起させる旋律は、Noismの身体表現が加わることで力を増し、会場全体の空気が一層張り詰めます。左右の観客は身を乗り出し、演者の動きを一瞬も見逃さないよう、舞台を見つめています。

 私は鑑賞時点では「お菊さん」のストーリーを全く知らなかったのですが、予備知識がなくとも、音楽と舞踊から物語が伝わってきます。特に印象的だったのが、芸者のお菊が途中で人形に入れ替わる場面。人として扱われていない花嫁の悲しさを描くと共に、花嫁が人形でも構わないという周囲の冷淡さが何百の言葉よりも雄弁に語られていました。

 しなやかな身体と音楽で表現される悲恋の物語の興奮冷めやらぬなか、「お菊の結婚」は幕を閉じます。
 そういえば、古来日本では、異国の人が「鬼」と呼ばれていました。新潟県内にも異人が流れ着いたと伝えられ「鬼」がついた地名があります(糸魚川市の「鬼舞」、「鬼伏」)。

 20分間の休憩に入っても、観客の脳裏に鬼の影を定着させた「お菊の結婚」の余韻は消えません。鬼の気配を舞台の向こうに感じつつ、もう一つの作品「鬼」の幕が上がります。

 スポットライトの下で男と女が交差する。
 その刹那、締太鼓の音が鳴り響き、劇場だけでなく観客の身も心も震わせる。そして鬼を巡る旅が始まる。
 
 プログラムの記載によれば、この作品に明確な物語はなく、役行者(役小角ともいう。鬼を使役したと伝えられる)、清音尼(佐渡で遊郭を開いた人物とされる)、修行僧、遊女、そして鬼が登場する、インスピレーションから創作された作品とのこと。

 男と女、鬼と人間が触れ、誰もが鬼となっていく。
 舞台を彩るのは佐渡の黄金と、生と血の象徴である赤色。人の心に隠れた鬼、それは暴力性や力であると共に欲望の象徴であり、美しい遊女、黄金のイメージに繋がる。しかしそれはただ浅ましいものではなく、鉱山の過酷な労働の中で暮らす人々の逞しさであり、人間が生きるための活力でもある。
 目に映る光景はそんなイメージを感じさせました。

 もちろん、この作品を彩るのは目で見えるものだけではありません。
 耳からは鼓童のプリミティブなビートが絶え間なく流れ込んできます。小さな音は遠くから記憶の底で鳴っているように響き、大きな音、いや、もはや音ではなく空気の波は、容赦なく劇場と空気と床をつたい、観客の身体を感電させるように内部から震わせます。

 鼓童が放つ避けがたい音の波に合わせて踊るNoism。もしくはNoismが創るリズムに鼓童が合わせているのか。一体化した両者のパフォーマンスに、観客の脳は痺れ、正気を保てなくなります。気がつけば、眩しい程の黄金が煌めくステージの中に迷い込んで呆然としている。だが油断してはならない。光のある所には影あり。闇に紛れて鬼が襲ってくる。

 とても個人的な感想なのですが、黒と金のボディスーツのような衣装で、ネコ科の獣が獲物に襲い掛かるような「鬼」を表現した井関さんの姿には、ウィリアム・ギブソンのSF小説「ニューロマンサー」に登場する凄腕の女用心棒モリイを重ねながら見ていました。
 指に仕込んだ黄金の刃(ブレード)で瞬きよりも速く獲物の頸を切り裂くモリイ。一拍置いてから赤く染まる視界。現実から遠く引き離されたように幻想的な「鬼」の舞台は、天才ハッカーのケイスが潜入した電脳空間だったのかもしれません。

 あっという間に舞台は終わり、劇場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれました。まだ体の中が熱く、演者の皆さんと共に「鬼」の世界に囚われているような感覚があります。もしかしたら、もう少し囚われていたいという気持ちがそうさせるのかもしれません。
 こうして私のNoism、鼓童初体験となる「鬼」は幕を閉じました。

 一晩経って頭をクリアにして振返ってみると、Noism×鼓童「鬼」公演は、舞踊に馴染みのない私でも楽しめるプログラムだったと思います。
 舞踊は身体による表現技法ですが、題材によっては抽象的・観念的で素人には理解が難しいものもあると聞きます。今回は「お菊の結婚」「鬼」ともに、登場人物のキャラクターが見た目で区別され、舞台上での役割が想像しやすかったため、自分なりに考えたり解釈することが容易な作品となっていたように思われました。
 また、現代的なストラヴィンスキーの楽曲や、鼓童の生演奏による躍動感のある太鼓のリズムは、それ自体が大変魅力的であり、音楽に耳を傾け、舞台上の演者の美しい所作を見ているだけで、楽しめる作品でした。

 その一方で、舞踊についてもっと知識があれば、より楽しめたのではないかという思いもあります。
 私がこれまで見てきた舞台芸術では「①:演劇・ミュージカル」→「②:オペラ」→「③:能」の順で難易度が高い(楽しむための前提知識や鑑賞経験が必要)のですが、舞踊は②と③の間位の印象を受けました。能よりは決まり事も少なく、パフォーマンスが直感的に理解できますが、①②と比べると物語の抽象度が高いうえ、高いレベルの身体コントロールの凄さを実感できるようになるためには、鑑賞者にも相応の審美眼が求められるのではないでしょうか。

 現代はSNSやネットを通じ誰もが創作者や表現者になれる時代です。そこでもてはやされるのは、わかりやすさであり、直感的に楽しめるエンターテイメント。それ自体を否定するわけではありませんが、そこでは積み上げた技術や歴史は軽視されがちであり、複雑で割り切れないものは無視されてしまいます。
 一方、絶えることなく過去から続いてきた文化や芸術は、知識や経験を得て初めて楽しめるようになるものもあります。
 例えば、ファストフードのハンバーガーは私も大好きですが、懐石料理の魅力は日常では食べることのできない味わいにあります。それは様々な食を経験してきたからこそ、まだ体験したことのない味や、今まで食べてきたものよりも洗練された味を楽しめるのだと思います。

 私にとって、Noism×鼓童「鬼」は、いろいろな事を考えさせられ、刺激を与えられた作品になりました。
 両団体が新潟を拠点として活動していることを改めて感謝するとともに、新潟に住んでいる私たちは、その恩恵を享受しないともったいないと思います。
 そして、Noismや鼓童の作品に触れて楽しむことは、大げさな話かもしれませんが、ひいては文化、芸術を未来に残していくことにつながるような気がするのです。

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