ベトナム・サイゴンの婚家 ”HÀ(ハー)GIA=何(が)家”の歴史を辿る

 最近は日本でもベトナムの存在が徐々に知られて来ましたが、1990年代頃はまだ殆どの人が、”えっ、それって何処の国??”という反応でした。😂😂
 縁があり、私が今の夫(生まれも育ちもベトナム・サイゴン)と結婚して夫の大家族と同居することになったのは今からかれこれ20年位前
 日本人の方で近年ホーチミン市にお住まいだと想像し難いと思いますが、当時は市外は言わずもがな市内でも停電・断水は日常的で、雨季スコールが降った後は彼方此方で河の氾濫みたいな冠水が発生してバイクがエンスト。泥水の河と化した道路をびしょ濡れの合羽姿でバイクを押し押し進む横目に、水膨れして3倍位にぷっくり膨らんだねずみの土座衛門死体が”どんぶらこ~”と流れて行くシュールな光景を何度見つめたことか…(笑)。
 
 話が反れましたが😅😅、今日は私の嫁ぎ先『HÀ GIA(ハー・ザー)=何家とHÀ 家の人々』についてです。
 過去の”NOTE”投稿記事で何度か書きましたが、私はベトナムに来た当初も結婚を決めた時も、世界史・日越史など詳しく知りませんでした!(←正直って大事ダナ…😅😅)
 同居して初めて知ったのは、家族の中で義父だけ『高臺(カオ・ダイ)』という土着宗教の信者ということ。それ以外は至って普通の、真面目で勤勉で平和的で勉学を何より好む家系、それが私の婚家『HÀ GIA=何家』でした。
 結婚して気が付いたのは周囲に”HÀ(ハー)さん”が少ないことです。友人でベトナム男性と結婚した人は、殆どがNGUYỄN(グエン=阮)さん。或いはTRẦN(チャン=陳)さん、LÊ(レ=黎)さんなどなど で、『HÀ(ハー=何)さん』は全然居ません。一度夫に聞いて見たら夫も”ああ、ベトナムでHÀ(ハー)性は少ないよ。”と、”当然じゃん😒😒”いう感じの素気ない返事…。(笑)
 実際に、ネットでベトナム民族氏姓ベスト15」』調べると、HÀ(ハー=何)性ベスト15にも入ってません。(因みに、NGUYỄN(グエン=阮)さんは全体の38%、3人に1人はグエンさんです。だから、日本いるベトナム人も多くがグエンさんなんですね…。😅😅) 

 嫁としては、”ちょっと寂しいナァ……”と感じつつも、特に気に留めず過ごしてた私が、”むむむ…、あれ??”と首を傾げたのは、そう遠くない数年前。旧ベトナム国の皇子クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』翻訳のため史料を調べていた時でした。

 1940年日本軍・ベトナム平和進駐の2年前、クオン・デ候は『ベトナム復国同盟会』を組織し、本部を日本の東京に置きましたが、この頃のクオン・デ候とベトナム本国や中国大陸、タイ等に散らばる革命同志間の連絡を繋いだ1人の日本人がいます。

 「 − 大川周明とクオン・デ –
 「南一雄」という偽名を使って東京で祖国復帰のチャンスを窺っていたクオン・デを、
松下(光廣)は大川に引き合わせた。(中略)『大川周明日記』には、「南一雄(=クオン・デ候のこと)」が事あるごとに大川周明を訪ね、公私共に二人が深い友情で結ばれていったことを示す記述が度々登場する。(中略)
 同
(1943年)10月22日には、大川はこう記している。
 「仏印松下君より電報、何盛三、村井正四郎両君の渡航を承諾し来る。」
 何盛三(が もりぞう)は、クオン・デに絶えず影のように付き添っていた人物である。」

            牧久著『安南王国の夢』より

 この様👆に、『ベトナム復国同盟会』(本部・東京)の頭領クオン・デ殿下を影で補佐していた日本人の名が何盛三(が もりぞう)氏です。
 このなんとも言えない偶然に、私やはり少し驚きました。数年前のある頃、”どうしてもこれを翻訳して世に出してくれ〜!”、と”天の声”を聞いた(ような…😅)気がして柄にもなく翻訳出版なんぞを試みて毎日『クオン・デ』を考え続けていた時に、私の婚家と同じ苗字を本の中で予期せず発見したのですから。
 
 大南(ダイ・ナム)公司(本社・サイゴン)の松下光廣氏も、
 「この当時、クオン・デの下に出入りしていた日本人は何盛三(が もりぞう)一人だった」と警視庁に語った、と外交資料館の資料記録中にあり、更に、
 「(何盛三が)影のように彼(クオン・デ)の身辺にあった」
 
とも語っていたそうで、この頃、周辺の日本人誰もが“クオン・デ候=安南の愚昧な王子”と仮の姿に騙されていた中、たった一人「影のように身辺にあり補佐をしていた日本人の何」さん…。とても他人とは思えません。(笑)😀 もしかして遙か昔は遠い親戚だったりして〜?と、勝手に運命的なものを感じましたが、さて実際どんな方だったのでしょうか?

 「時は流れて1929年、大久保百人町167番地に女中と同居していたクオン・デは、(中略)来訪者としては、赤坂…に住む何盛三の外にはほとんどない有様であった。
 …何盛三(が もりぞう)は、明治18年東京神田に旧幕臣赤松大三郎(則良)の三男として生まれた。父赤松大三郎は、幕末に榎本武揚らと海軍伝習のためオランダへ留学し、帰国後、沼津兵学校教授等をへて佐世保、横須賀の鎮守府長官に累進した、わが国造艦学の先駆者である。盛三は15、6歳の頃、望まれて何家に入り、嗣子となった。何家は元来、長崎で帰化した中国人の家柄で、養父は幕府に唐通詞として使えていた。
 …何盛三は学習院をへて、京大法学部経済学科に入った。京大では、河上肇博士の教えも受けたという。卒業後、住友鉱山、久原鉱業などに勤めたが、…大正5、6年ごろ辞職した。この頃から、中国に深い関心を示すようになり、シナ語、エスペラント語に習熟するようになった。…大正8年老荘会員となる。

        『ヴェトナム亡国史 他 解説』より

 なにやら凄い優秀な方だったようで、私も便乗で嬉しいです。😃💦
 盛三氏は、「東京の善隣書院(宮島大八創立にかかる民間唯一の中国語学校)」で教師を務め、『北京官話文法』を著したそうです。また、老荘会からでしょうか大川周明先生と同じく『猶存(ゆうぞん)社』にも籍を起きました。終戦後は満州ハルピンから引き揚げ、昭和26年青森県八戸市で亡くなったそうです。
 この長崎の『何(が)家』については、上述『安南王国の夢』にこの様な記述があります。

 「…松下はサイゴン陥落後、日本に帰国、故郷の天草に隠棲した際、大江町にあった「何医院」を懐かしそうに訪ねたという。
 そして、「何医院は代々何家の一族が継いで、天草から熊本市幸田に移って経営を続けている」

 と、ここで「何性」「長崎」「唐通詞」「幕末」をキーワードにしてネット検索をしたら、この方が出てきました。⇩
 
 「何禮之(が のりゆき)

 解説:1840(天保11)年生。長崎出身。父は唐通事何静谷。1863(文久3)年長崎奉行所英語稽古所学頭。1867(慶応3)年開成所教授職並。1868年瓊江塾を開設、大阪洋学校の設立にも尽力。同年開成所御用掛、一等訳官。1869年兼造幣局権判事、洋学校督務。1870年大学少博士。1871年文部少教授。同年岩倉使節団に一等書記官として参加、特に木戸孝允に随行して憲法制度調査に従事。1872年外務二等書記官。1873年帰国。同年駅逓寮五等出仕。1874年内務省五等出仕、台湾蕃地事務局御用掛。1875年第三局長心得。1876年翻訳課長心得、内務権大丞。1877年内務権大書記官兼図書局長。1880年内務大書記官。1884年元老院議官。1890年錦鶏間祗候。1891年貴族院勅選議員。1923年死去。」
              
国立文書館 アジア歴史資料センター (archives.go.jp)より

 。。。岩倉使節団に一等書記官として参加、晩年は元老院議官に貴族院議員…、やはりもの凄い優秀だったようで、またまた何故かとても嬉しい🤗!
 父何静谷氏『長崎唐通詞』と書いてあるので、『何盛三』の養家はもうここで決まりじゃないのかな~??と勝手に憶測したりして。
 因みに、私のベトナムの婚家『HÀ GIA=何家』も義姉と義弟は医師ですし、親戚は学校教員が多いです。
 とは言え、ベトナムで『HỘ HÀ =何性』は極めて少数でして、仏領インドシナ時代の抗仏運動関連書にも滅多に登場しませんが、それでも、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)『ヴェトナム亡国史』には印象深い『何性』の人物が書き遺されてます。

 「 何文美(ハ・バン・ミ、Hà Văn Mỹ)、
 河静(ハ・ティン)の人で、書生の身で詔に応じた。考えの深い、頭の良い人物で、変装してフランス兵営に紛れ込み諜報活動を行なったり、兵器を盗んで山へ担ぎ込んだが、フランスは中々摘発できなかった。中傷を受け、最期はフランス人の手にかかる前に、ピストルで咽喉を撃って自殺した。(中略)実に義党のうちでも最も清洌な人物であった。恨みを晴らすことができなかったフランスは、彼の首を斬り取って、十数日間市街に晒した。」

             『ヴェトナム亡国史』より

 中部を中心としたベトナム義党による抵抗蜂起は、フランス軍を大いに悩ませましたから、フランス側は多額の費用を注ぎ込み周辺の匪賊や山岳民族を買収して山狩を行うなど、手段を選ばずに義人たちを追い詰めて行きました。フランスは、その恐怖が後にトラウマとなったのか、仏領インドシナの統治政策は蟻も通さない密偵網』と『重課税による土民搾取』で、この恐怖統治の噂は周辺諸国にも漏れ聞こえていた程です。
 何文美(ハ・バン・ミ)氏は科挙受験生=書生武科か文科の何れにせよ優秀な家柄・人物だっただろう…、と考えると、もしかして私の婚家とも数百年前は親戚…?と想像は膨らみます。
 何故なら、私の婚家『HÀ GIA=何家』も、先祖代々之家系図が遺っており、約3百年前に中部フエから南下して南西部に定着した家系なのです(義父は大学でサイゴンへ上京)。と、ここでベトナム史がお好きな方はもう”ピーン”と来ましたでしょうか。そうです、16-7世紀のベトナム民族大躍進、『南進』開始期頃なんですよね~。😊😊

 先の記事にも書いた、亡くなった義父の書庫には祭壇があり夫のお爺さん、ひいお爺さん達の写真や肖像画が飾ってあります。中部フエを果敢に出立し、南進して幾多の艱難を乗り越えとうとう肥沃なベトナム南西部に着いた。そして土地を開墾し田畑を作り、村を組織して親戚家族を繁栄させた、沢山の優しそうな笑顔、精悍な横顔。でもそこには実際、想像も出来ない困難や苦労があっただろうと思います。
 その後、安住もつかの間、19世紀後半から西洋資本勢力・フランス軍の侵略を受けた時も、戦い続けてくれました。。。

 あの時もこの時も、
 もし、ご先祖様が決意してくれてなかったら…?


 ”お父さんは生まれてないから、貴方もこの世に存在しなかったよ。”
 南部ベトナムで生まれ育った日越ハーフの娘は、この言葉の意味と有難さを素直に実感できるみたいです。今はベトナムは取敢えず平和で、未来に希望も持てます。ご先祖様の勇気には感謝しかない。

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 祭壇に並ぶ夫のお爺さんの写真。
 ”Ông nội(お爺さん)はね、何故だか知らないけど、髪を頭の後ろの上に一つに結わいてたのよ。昔の日本の侍さんみたいに。」
 これ⇧は、唯一お爺さんの記憶が微かに残っている長姉の想い出。

 サイゴン陥落(1975)の年に小学生だった夫。
 ”官軍(←現政権。。😅)の各戸検査の直前に、危険だからって親父が先祖代々の飾りが入った大きな刀を捨てちゃったんだよ。”
 これ⇧は、娘が聞いた父親の子供の頃の想い出。

 大東亜戦争の仏印進駐時に、高臺(カオ・ダイ)教青年部は日本の軍と憲兵隊の支援を得て軍隊を再強化・組織化したと史実にあります。
 義姉らの想い出話を総合すれば、私の婚家『HÀ GIA=何家』は南部移植後は農業で生計を立てましたが、古くは先祖代々の刀を護ってた大陸帰化系武門の家系じゃないでしょうか。安住の地・メコンデルタの平和が破られた時、先祖の血が再び呼び覚まされたか。
 日本軍から訓練を受けたカオ・ダイ教部隊が”滅法強かった”のは有名な話ですが、これが謎解きじゃないのかな、と言うのが私の私見です。

 人類愛を説く宗教家が武器を取り、戦地にあっては最も勇猛果敢だったとは妙ですが、私は子供時代に聞いてたアニメの主題歌がいつも不思議と頭に浮かぶのです。作者石ノ森章太郎先生ご自身の作詞による、アニメ『サイボーグ009』の歌。(←昭和生まれ。😅)

吹きすさぶ風が よく似合う
九人の戦鬼と ひとのいう

だが我々は 愛のため
戦い忘れた ひとのため

涙で渡る 血の大河
夢みて走る 死の荒野

弔いの鐘が よく似合う
地獄の使者と ひとのいう

だが我々は 愛のため
戦い忘れた ひとのため

闇追い払うときの鐘
明日の夜明けを告げる鐘


 

 

 

 



 

 

 

 


 

 
 
 

 
 
 
    

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