何祐子

何祐子(が ゆうこ)。1990年代初めにベトナムホーチミン市へ渡航、在住25年以上にな…

何祐子

何祐子(が ゆうこ)。1990年代初めにベトナムホーチミン市へ渡航、在住25年以上になります。戦前のベトナムと日本に関連する資料・書籍の掘り起こしと整理をこつこつとやっています。

マガジン

  • 満鉄東亜経済調査局

    戦前日本の叡智-『南満州鉄道株式会社』附属『東亜経済調査局』発行の書籍から、フランス領植民地(仏領インドシナ)時代のベトナムの歴史を紹介してます。

  • サイゴンの思い出

    私のベトナム滞在備忘録

  • 仏領インドシナと戦前の日本人

    戦前の仏領インドシナ、ベトナムの独立を直接、間接に援助した日本人を纏めてます。

  • 大東亜戦争とベトナム

    戦前の我が日本国と、フランス領植民地だった仏領インドシナーベトナムの間にあった過去の出来事を掘り起こしてます。ここでは、主に大東亜戦争に関連するものをまとめてます。

  • ベトナム史あれこれ まとめ

    今迄に書いたベトナム史に関する記事をまとめてます。

最近の記事

満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑥ ~初期の植民政策・第一期~

満鉄東亜経済調査局|何祐子|note 1,第一期(1885年~1895年)  1889年の植民地会議の結果、完全なる同化政策を採用すべきことが決議され、従って一切の地方的事情は無視され、旧来の伝統的な諸機構は仮借なく破壊されるに至った。そして新たなる機構が生まれ、之に従うことを土民に強要した。…斯くの如き土民の消極的な抵抗の為に、フランスの同化政策は一つの越え難き障壁に当面したのである。  …先ず同化政策の誤謬を最初に指摘したのはフェリーであった。彼は初めからインドシナ

    • ベトナム南部の ”スカシーバ・ガカ”の思い出”  ~私のベトナム備忘録😅~

       毎度お馴染み(笑)、私の一風変わったベトナムの想い出備忘録です。。  一昨日位に、こんなネットニュースを読みました。⇩  目撃者が語った「恐怖」…京都・清水寺近くで「桜の木」倒れる…男性が下敷きに(日テレNEWS NNN) - Yahoo!ニュース  桜の木が腐って倒れた…とか、”まぁー、怖いわねぇ。。”で普通は終わりだと思いますが、私はこのニュースを見て、10年前位にベトナム南部のドンナイ省へ旅行した時の思い出が蘇りました。。。  ホーチミン市に隣接するドンナイ省に

      • 日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その②

         日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①   1940年 6月 パリ陥落(フランス本国がドイツに降伏) 9月15日 タイから在バンコク仏大使に4箇条要求   17日 仏印側はこれを拒否  (ドン・ダンの戦が終わり、日本軍が北部仏印進駐開始)   30日 タイ再度要求を申し入れ、仏印再び拒否      タイ・仏印両国陸軍が国境方面へ集結 11月25日 タイ軍が国境を突破して侵入を開始  (12月に入り戦況激しくなり、日本は調査団を派遣) 12

        • 日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①

           第2次近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣の時の平和外交『タイ・仏印紛争調停』。日本人にとっては大変誇らしい史実の一つです。  。。。しかし、殆どの日本人は何故か全く知らない。。。戦後日本外務省の強烈な呪いが掛かってます。(笑)😅  今日は、時の外務大臣松岡洋右(まつおか ようすけ)が牽引した、『仏印進駐』(1940年9月)直後の日本が2国間の調停に入って見事成功させた華々しい平和外交を取り上げたいと思います。⇩ *******************  「1867年まで

        満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑥ ~初期の植民政策・第一期~

        • ベトナム南部の ”スカシーバ・ガカ”の思い出”  ~私のベトナム備忘録😅~

        • 日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その②

        • 日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①

        マガジン

        • 満鉄東亜経済調査局
          6本
        • サイゴンの思い出
          8本
        • 仏領インドシナと戦前の日本人
          60本
        • 大東亜戦争とベトナム
          50本
        • ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯
          31本
        • ベトナム史あれこれ まとめ
          53本

        記事

          『やっぱり、高台(たかだい)が”神”だったよ~』の記憶 ~私のベトナム備忘録😅~

           毎度お馴染み(笑)、ちょっと風変わりな女史だった私のベトナム備忘録です。。(サイゴンの思い出|何祐子)  以前からちょこちょこ書いてますが、亡くなった義父はベトナム南西部省出身で熱心な高臺(カオ・ダイ)教信者でした。義父の生家だけではなく親戚一同もその村全体もカオ・ダイ信者が多く居り、田舎へ行くバス車窓の景色には、『カオ・ダイのシンボル』、ピラミッドの中に左目の入ったマークが付いた教会が沢山目に入って来ます。  ベトナム語表記は『Cao Đài』、これで『カオ・ダイ』と

          『やっぱり、高台(たかだい)が”神”だったよ~』の記憶 ~私のベトナム備忘録😅~

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑤ ~フランスのインドシナ征略(2)~

           満鉄東亜経済調査局|何祐子|note フランスが安南王国南部即ち現コーチシナに着々その勢力を扶植していた時、カンボジアに於いては国王ノロドムがタイに操られた王弟シ・ヴォタのため王位を簒奪され、王位回復の機を狙っていた。機を見るに敏なラグランディエールはこの好機を見逃さず、巧言を以て王位回復を条件とし王と保護条約を締結した。一方タイと交渉し、遂に1847年タイがカンボジアより割譲されたバッタムバン及びアンコールに於ける宗主権を認めることを条件とし、之が保護権を承認せしめ

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑤ ~フランスのインドシナ征略(2)~

          グエン朝第8代皇帝・ハムギ帝と画家藤田嗣治(ふじた つぐはる)

           戦後の日本では全然忘れ去られてますけど、、、  ベトナムは、1945年までは帝政国家です。。。😅😅😅  先日、bossacubana|noteさんのグエン朝第8代咸宜(ハム・ギ)帝流刑後のアルジェリア滞在期に関する記事を大変興味深く拝読しました。⇩  帝国の隔離者(1)|bossacubana (note.com)  ハム・ギ帝は、1885年に抗仏蜂起に起ち、1888年に捕えられた後に北アフリカのフランス領アルジェリアに流刑となって以後、二度と祖国の地を踏む事が無くその

          グエン朝第8代皇帝・ハムギ帝と画家藤田嗣治(ふじた つぐはる)

          ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~

          ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?・続編 ~ホーおじさんのコミンテルン人脈を探る!~  今日はこの⇧シリーズの続・続編。。(お母さん、暇なの~←我が家のJDの声。。。)😅  一応、ネット情報によるべト・ミン情報はこちら。⇩  「ベトミン(ベトナム語:Việt Minh / 越盟)、正式名称:ベトナム独立同盟会(ベトナムどくりつどうめいかい 越南獨立同盟會)は、1941年5月19日に正式に結成され、フランスによる植民地支配からの独立を求め第一次インドシナ戦争において戦闘に従

          ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~

          ベトナム志士義人伝シリーズ⑱ ~阮朝フランス通詞 阮徳厚(グエン・ドック・ハウ、Nguyễn Đức Hậu)~

          ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note  「1866年西洋留学から帰国したゲアン省出身の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)らが、国際情勢を詳細に述べた上で、一日でも早く政治改革せねば祖国が失われてしまう恐れありと訴状をしたためるが、廷臣らは耳を傾けようとしなかった。」        チャン・チョン・キム篇『越南史略』  1975年までのベトナムの大ベストセラー歴史書、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』にもその名が出て来る程、当時の朝廷政府内で最も名の通った

          ベトナム志士義人伝シリーズ⑱ ~阮朝フランス通詞 阮徳厚(グエン・ドック・ハウ、Nguyễn Đức Hậu)~

          同族を殺す売国奴とは、実は内側のスグ傍に居る - ベトナム志士義人伝シリーズ⑰杜基光(ダウ・コ・クアン)

           ベトナムの抗仏史関連書には、ベトナムがフランスに蹂躙されると直ちにフランスに頭を垂れた無節操で強欲なベトナム人の存在が際立っています。  フランスという西洋人支配下を恰も”新時代の幕開け”とばかりに勘違いし、率先して国を売り同国人を蔑み、そして支配する。植民地政府内で立派な肩書・官職を得て、言われるがままに同胞へ重税を課して、土地を資源を奪って貢物をする。勿論、途中で自分の懐を潤すことを忘れずに。  ベトナムの独立運動家潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝や『越南義烈史』

          同族を殺す売国奴とは、実は内側のスグ傍に居る - ベトナム志士義人伝シリーズ⑰杜基光(ダウ・コ・クアン)

          ベトナム留学生と静岡の医師浅羽左喜太郎(あさば さきたろう)先生

           ベトナム、或いはベトナム近代史を知る方は、この浅羽左喜太郎先生と『東遊(ドン・ズー)運動』のベトナム留学生との交流や、独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)との関係のことを、もうよく御存知のことと思います。    浅羽左喜太郎氏は、静岡の梅山(現在は袋井市梅山)のご出身で、当時小田原で病院を開業していた医師でした。ある日偶然、道で物乞いをしていたベトナム留学生を見つけ話を聞き取り、家に連れて帰って養育してくれた義侠の人です。  ベトナム留学生が日本政府から学生解散令を受

          ベトナム留学生と静岡の医師浅羽左喜太郎(あさば さきたろう)先生

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』④ ~安南王国の反仏時代・フランスのインドシナ征略(1)~

           先にシェニョの帰国中、1820年1月15日グエン・フック・アインは薨じ(ピニョ―と共に渡仏せるカイン皇太子は、22歳の若さを以て1801年3月20日逝去す)、第4王子たる明命(ミン・マン)王福皎が王位に就いたのであるが、王はフランスの勢力が拡大するを憎み、父王と全然逆な拝外政策を採り、シェニョの持参せる通商条約を一蹴した。  全然期待を裏切られたシェニョは、その冷遇、敵視に耐えかねて、1824年フエを去った。翌25年、王は更にルイ18世の国書を持参せるブガンビーユ艦長との謁

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』④ ~安南王国の反仏時代・フランスのインドシナ征略(1)~

          本当の近衛文麿(このえ ふみまろ)氏の姿

           私が2,3年位前から非常に不思議に思っていること、それは『近衛文麿(このえ ふみまろ)が日米戦争を策謀した』という説の存在です。。。  「近衛は、単なるポピュリストに非ず! 用意周到に己の野望を実現するための布石を着々と打っていた近衛は、首相時代は赤色分子(風見章・尾崎秀実ほか)を重用し、「敗戦革命」を夢見つつ戦争末期には近衛上奏文(反共宣言)でアリバイ工作。そして戦後はいち早くマッカーサー詣でをして、自ら改憲の音頭をとり、あわよくば昭和天皇を退位させて親米政権を樹立しよ

          本当の近衛文麿(このえ ふみまろ)氏の姿

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』③ ~安南の内乱より統一までのフランスの勢力扶植

          満鉄東亜経済調査局|何祐子|note  次いで両国交渉史に現れたのがピエール・ジョセフ・ジョルジュ・ピニョ―である。彼は1741年11月2日、アイズヌ地方の片田舎オリ二アン・チェラシュに産声を挙げ、「外国伝道研究所」に入所、1765年フランスを去り、交趾支那(コーチシナ)に向かった。時恰も安南王国に於いては内乱に依り国内悉く乱れ、運命の神は誠実な神の使徒たるべきピニョ―に、思いがけずもフランスのインドシナ征略史の第一頁を飾る主要人物たるべき役割を与えたのである。如何にしてピ

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』③ ~安南の内乱より統一までのフランスの勢力扶植

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』② ~フランスのインドシナ征略史-ポルトガル人先駆時代とフランスの進出~

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』① ~民族略史~ 二、仏蘭西(フランス)の印度支那(インドシナ)征略史  Ⅰ、葡萄牙(ポルトガル)人先駆時代  インドシナに最初の足跡を印したのは、ポルトガル人フェルナン・プレである。時に紀元1516年。恐らくは現カンボジアの沿岸に上陸したものであろうが、次いで1524年にデュアルト・コエルオ、更に35年アントニオ・フォリアが続いて入国した。これら先駆者の開拓により、ポルトガル船舶は相次いでカンボジア沿岸にその姿を現したが、更に

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』② ~フランスのインドシナ征略史-ポルトガル人先駆時代とフランスの進出~

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』① ~民族略史~

           戦前日本にあった南満州鉄道株式会社-その付属機関『満鉄東亜経済調査局』。クオン・デ候と懇意だった大川周明(おおかわ しゅうめい)先生も、1921年から局長を務めました。  この東亜経済調査局が、昭和16(1941)年に発行した『南洋叢書 改訂仏領印度支那(インドシナ)篇』という本があります。非常にハイレベルな内容でして、その中の『フランスのインドシナ征略史』のベトナムに関する部分だけを数回に分けてご紹介したいと思います。 (『仏印=仏領インドシナ連邦』の概略はこちらから⇒

          満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』① ~民族略史~