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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第8章 3か月の南圻滞在~

 南圻(なんき、Nam Kỳ)とは、フランスによって3つに分断された南部地域のこと。当時は、”交趾支那(コーチ・シナ)”と呼ばれていた地域です。コーチ・シナの都は”サイゴン(西貢、紫崑)”、現在の  ”ホーチミン市”です。

 日本を出国してから、中国大陸各地やタイ国にある同志拠点を転々としていたクオン・デ候は、この頃果敢にも、ベトナム南部へ単身で帰国潜入します。『クオン・デ候帰国』の情報を素早く掴んだフランス統治政府によって厳重なクオン・デ捕縛令が各地へ発布された為、変名を使って移動しながら、河に浮かべた小舟の上で生活をしました。
 この第8章は、南部の人々との交流、同志達の献身的なサポート、国民からの多額の寄付等、心温まる話が満載です。

 サイゴンの宿の女主人『五隆(ナム・ロン)婦人』の案内でサイゴン市内を回ったクオン・デ候は、繁華街カティ・ナット通り(現在のドンコイ通り)で見た植民地施政下の苛酷な現実に言及しています。
 それは、車賃を投げつけたフランス人に文句を言ったベトナム人車夫に、近くで賭博に興じていたフランス兵が集団で殴る蹴るの暴力を振るい、また何食わぬ顔で博打の席に戻ると、向こう側の通りに立って眺めていたベトナム人の警察官がやっと駆けつけて来て、その場で血を吐き倒れている車夫へ数回足蹴りを入れ、”とっとと、消え失せろ”と、吐き捨てた姿です。

 3か月の滞在の後、英国籍商船『泰古(Thái Cổ)号』でサイゴンから出国、香港へ向かいました。

 (1913年頭~1913年5月頃)

 


**第8章 3か月の南圻滞在**

 国を出てから既に6、7年が過ぎても、国外の運動は中々思い通りに進まず、更に1912年末から1913年初頭にかけては、日本、支那、タイ、何れの国に於 いても我々の活動は八方塞がりでした。
 
 事態は更に行き詰まり、全く別の方向性を考えねばならなくなりました。別の方向性とは、危険を冒して国内で活動を試みるという道でした。

 帰国に当っての最大目的は、纏まった大きな資金を集めて海外へ持ち出し、私の新規計画に充てること。以下がその内容です。

  ‐支那とタイに何か所か活動拠点を設けること。
  ‐新規入党した同志を結集させること。

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