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日本人農業移民と『広島移民斡旋会社』

  明治時代末、ベトナム独立運動家潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と共に日本へ亡命したベトナム王国のクオン・デ候、1951年に東京飯田橋の日本医科大学第一附属病院で薨去されました

 1957年ベトナム・サイゴンで自伝『クオン・デ 革命の生涯』が出版されましたが(日本語訳本はこちら⇒ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |、この第4章『泰(タイ)へは、1908年頃より母国からの送金をフランスに妨害された為、日本に代わる活動拠点としてタイを検討した頃の事が書いてあります。⇩

 「優秀な人材の育成に集中して取り組むべしと決意を新たにしたそんな時、日本での活動を停止せねばならなくなったのです。(中略)私はその為 に泰(タイ)へ移ることを考えます。
 タイとベトナムは、歴史的な面でも地理的な面でも極めて密接な関係にあります。 その昔、嘉隆帝が復国闘争の最中タイに根拠地を建設した史実があるのです。嘉隆帝は、1785年頃配下の部隊6‐7百人を連れてタイへ渡り、タイ王より与えられたバンコック郊外の土地‐ロンキ (Long Kỳ )という名のベトナム人居住区に住み着き…(中略)私はこの歴史的経緯を想い、一縷の希望を持ってタイに渡ったのです。」
    
『クオン・デ 革命の生涯 第4章 泰(タイ)へ』より

 嘉隆(ザー・ロン)帝とは、クオン・デ候の6代前の先祖、阮(グエン)朝の開祖阮福瑛(グエン・フック・アイン)のことです。(系図はこちら⇒阮(グエン)朝の皇帝系図|何祐子

 1908年当時、タイには既に約1万5千人の越僑(えつきょう)が住み着いてました。ベトナムとは歴史的、地理的な関係の深いタイに、当然クオン・デ候達は早々に革命拠点の構築を始めました。⇩

 「その頃タイで活動していた鄧午生(ダン・ゴ・シン)ら三十数人の同志グループは、 私のタイ渡航を殊の外喜び、ここで活動拠点を設立し同志達を指導して欲しいと切望します。けれども、先のような理由で私が表立って活動はできないので、彼らの集団生活の為に農営舎を買い取り、そこに小さな連絡事務所を設立したのみでした。」
          『クオン・デ 革命の生涯』より

 何故か『農営舎』が登場。。。
 そうか……、生きる為に食べなきゃならない、それには先ず農業だよなぁ、流石ベトナム人逞しい…、と妙に納得。ですが、第7章『支那、泰での奔走』にも、こんな記述があるのです。⇩

 「…鄧子敬と鄧午生が香港からタイへ行き畑業計画を立てていること、 それに、潘佩珠も近々広州からタイへ渡る予定だと聞きました。」
 
 
この様に、日本退去後の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)ベトナム革命党の「畑業計画」の為にタイへ渡ってるのです。そして、その事はファン・ボイ・チャウの自伝『自判』に詳細が書いてありました。⇩
 
 「己酉(1909)年2月、…畿外候(=クオン・デ候)と私のところへ日本政府から退去命令が届いた。(中略)香港に着いてから家を借り受け、カトリック教徒代表)牧老蛑(マイ・ラオ・バン)梁立岩(ルオン・ラップ・ニャム)少年の2人と同居、国内の魚海(グ・ハイ)翁へ、タイで農業をやりつつ在タイの仲間と英気を養いたいので資金を請う旨手紙を送った。(中略)
 タイへの出発に際し、大隈重信伯が、法科博士佐藤賀吉氏への紹介状を送ってくれた。佐藤博士は、当時タイ政府の法律顧問大臣としてタイに在住、佐藤博士がタイ国王に紹介してくれたお蔭で、外務大臣とも会談でき、これ以後タイ親王とは親しく付き合うことが出来た。(中略)
 …その頃、タイでの諸々の農業計画を親王にお願いしたが、親王は快く即諾してくれた。翌年に、我が党員の開墾団-
鄧子敬(ダン・トゥ・キン)や鄧午生(ダン・ゴ・シン)、胡永隆(ホ・ビン・ロン)ら大勢が一斉にタイへやって来た理由がこれだった。
        『自判』『潘佩珠伝』より

 戦前、タイ農地開墾に、タイ王室・政府共にとても乗り気で協力的な様子が窺えます。。。また、ここで意外なのは、『大隈重信(おおくま しげのぶ)伯』のご登場。。。😅😅

 実は、ファン・ボイ・チャウやクオン・デ候が清国の梁啓超(りょう・けいちょう)から先ず一番に紹介されたのが大隈重信と犬養毅(いぬかい つよし)でしたが、その後庇護者として『大隈重信』の名は出て来ません。
 そんな大隈伯が、タイへ農地開墾に行くファン・ボイ・チャウにわざわざ親切にタイ政府(の佐藤博士)へ紹介状を書いてくれたのは特別な意味があるかもなぁ…と思ってましたが、この辺りを紐付ける様な面白い記述が、宮崎滔天氏の自伝『三十三年の夢』の『暹羅(シャム)遠征』章にありました。⇩

 「当時岩本千綱君なるものあり。神戸に在りて盛んに暹羅(シャム)経論を説く。(中略)而してその説く所に因りて同国の事情を知り、殊に同国における支那人の勢力あるを聞知するに及んで、心頭一点の希望は浮み出でたり。(中略)暹羅の地は生活するに易く、而して支那人その人口の大半を占むると聞く、即ちここに航して支那の言語風俗に習熟し、基礎を同国の支那人に作りて、機を見て支那本土に進入するの策なり。」

 滔天氏は、支那に志を立てて大陸への機縁を探していた頃、友人から”暹羅(=タイ)には支那人が一杯居るぞ”と聞きました。それなら先ず、タイの支那人社会に接触しようと決心します。丁度、近々日本移民を率いて暹羅に乗り込む計画があるから参加しないかと誘われ、急ぎ故郷で準備を整えて神戸に着くと、「何ぞ図らん、彼(岩本)は重病を得て瀕死の境」だったのです…。

 「百人に近き移民は既に来りて出発を待ちつつあり。而して主なる岩本君の病は日に重り行きて、いつ出発すべしとも定まらず。(中略)これが周旋者たる広島移民会社の因却一方ならず、加うるに各所の新聞は筆鋒を揃えて岩本君の身上攻撃を始め、(中略)移民会社も前途の憂慮と目前の事情とに迫られて、その移民を挙げて、布哇(ハワイ)行に変更せしめんと努め、遂に岩本君等一派と移民会社の衝突となり、延いて移民と移民会社との衝突となり、」        
        『三十三年の夢』より

 ここで…、戦後生まれの私は意外なことを知りました…。😅
 移民会社とは、”タイが駄目そうだからハワイどう?”というオプション提案出来る所謂旅行代理店様な商売か…。それと、”人余りの国から人手不足の現場へ、国と国を跨いで労働力の人身斡旋をする会社”の利権本拠地が戦前『広島』にアリ…😵‍💫という事。

 宮崎滔天氏は、日暹(にっせん)両国将来の為に…、と代理を頼まれて移民を引率して首都盤谷(バンコック)に乗り込みました。

 この日本人移民計画、タイ側は、愛国者で武官出身の商務大臣スリサック候が中心的な役割をしていたそうです。この頃、『タイの未開墾農地へ勤勉な日本人労働力輸出』はアジア振興の奇策として期待を集めていたのかも。そんな背景で、大隈重信もファン・ボイ・チャウに現地の法律顧問佐藤博士を紹介してくれたのかも知れません。。

 でも、戦後経済大国になった昨今の日本ではもうかなり長い時間『農業労働者斡旋』イコール『ベトナム人農業実習生』になってますよね…。丁度最近、ベトナム実習生をテーマにした、なるせゆうせい監督の『縁の下のイミグレ』という映画も公開されました。

 そこでです。。。😑😑 
 ワタシは20年位前、まだ『ベトナム人実習生制度』が出来る前の日本留学ブーム初期に、ホーチミン市の留学希望生の応募書類チェックをした事があります。。
 その当時の必要書類は確かこんな感じ⇩。
  ① 履歴書や卒業証明書、身分証明書類のコピー
  ② 日本円換算で約300万円分残高がある預金通帳コピー、或いは銀行の預金証明書
  ③ 現地日本語学校の推薦書や日本語検定1、2級の合格証コピー
  ④ その他補足書類

 日本政府は、「300万円預金がある家庭=お金持ち」と考えたかも知れませんが、そもそも論で金持ち家庭は当然欧米留学してしまう。(笑)残るは極一部の日本に関係の深い裕福な親日派、それ以外の大半は中流或いは中流以下の家庭なので、銀行に資金を寝かせてる家庭など皆無(20年前当時)ですね。では、どうしたか?
  ⇒銀行で留学ローンを組む要するに、借金負わせる。😑  
 ハードルを簡単に飛び越えさせるー。💦💦

 銀行・現地日本語学校・ベトナム斡旋業者・日本の受入れ校・官も民も、結局仲良しになって、これを正業にして家族を養う人が増えて行けばもうどうにも止まらない。。。周囲の声に掻き消されず異議を唱えるのは非常な勇気が必要だ。。

 でも、宮崎滔天氏違ってました。
 移民希望者100人中、移民会社のハワイ行変更の説得に応じなかった20人を前にこう言ったのでした。⇩ 

 「余は発航の前夜を以て移民の寄宿舎に至り、20人の渡航希望者を一室に集めてその決心を確かめたり。(中略)然れども諸子のこの行を企つるや、皆利益を以て主眼となす、即ち一日も早く財貨を貯え得て、一日も早く故郷に帰り、而して父母妻子と残生の安楽を計るはその本願にあらずや、されば危うきを踏んで成敗を蛮地に賭せんより、むしろ事情既に明にして、危険の恐れなき所に到るに如かんや、…」

 自分は革命を志し、その為にタイの支那人社会に接触する目的があるが、君達移民はそうじゃない、「利益を以て主眼となす、即ち一日も早く財貨を貯え得て、一日も早く故郷に帰り、而して父母妻子と残生の安楽を計るはその本願」だとズバリ言い当ててます。
 あれれ、、、今まで私が出会った現代の田舎出身のベトナム人農業実習生皆が皆、全くこれと同じことを言ってましたよ…。
 彼等はもしかして、100年前の日本人移民と全く同じ境遇か…。😢😢 

 「然れども変り易きは人心なり。さきに余と浮沈生死を共にせんと誓いし20人の移民は、(バンコックに到着後)日本医生某の為に誘掖せられて、しきりにタルラックの鉄道工事に至らんことを乞えり。賃金の甚だ貴きが為なり。而してその賃金の貴きゆえんは、瘴煙(しょうえん)毒霧の身に適せざるものあり。土人(=現地タイ人)といえども避けて至らざるを以てなり。(中略)
 彼等を義理知らずと云うことなかれ、…情知らずと云うことなかれ、(中略)…知りてこれを抑制し、猶且つ毒霧瘴煙の裏に身を投ぜんとするもの、唯これ一黄白の為のみ。否、黄白の為と謂うことなかれ。これなければ彼等は父母と親しむ能わざるなり。妻子と同居する能わざるなり。彼等の生命はこれなり。嗚呼、あに止むを得んや。」

             『三十三年の夢』より

 タイに着いてから移民達は、『もっと賃金の高い職場あるよ!』の話につられてしまい、斡旋会社を裏切って職場を変える不義理をしてしまったんですねぇ。。。
 えーと、これは100年前の日本移民の話。何故か境遇が現代のベトナム農業実習生の境遇と完全に一致

 この戦前の『広島移民会社』は、1945年8月の敗戦以後どうしたのでしょうね? 
 そういえば今の総理大臣は広島1区が選挙区だから、敗戦後の『広島移民会社』がどうなったのかこっそり知ってる可能性もありますね。
 戦後80年過ぎて後たった20年で百年、今後も増税・円安・物価高が続けば再び日本移民の順番が本当に巡って来そうな勢いですけど。。20年後、「よ~し、ベトナム実習生もそろそろ終わりだ。今度は日本移民の番だぞ~~!!」なんて、『広島移民会社』の亡霊が地獄の底から蘇らないようにしてもらいたいですね。。。😨😨😨
 

 

 

 
 
 
 
 
 
 

  

 
 
  

  

 

 
 
 

 

 

 
 

 

 

 

 
 
 

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