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『馬賊の唄』 ←本当の作者は誰??

 先の記事西田税(にしだ みつぎ)とベトナム抗仏志士で、1936年2月26日の『2.26事件』で青年将校らの思想的リーダーだったとして逮捕、死刑となった西田税(にしだ みつぎ)氏と、ベトナム人志士陳文安(チャン・バン・アン=チャン・ヒ・タイン)氏の交流を書きました。

 西田氏の自伝書『戦雲を麾く』は、彼が24歳の時の大正13年(1924)に書かれたものです。この自伝中の『聖戦の途に上る』章には、広島陸軍地方幼年学校を首席で卒業し、大正7年(1918)に市ヶ谷台陸軍学校中央本科に入学するために東京へ上京した以後のことが書かれています。
 西田氏の文章から知る事が出来る、大正7年頃の日本の様子はこんな感じ。⇩

 「10月、校内に流行性感冒発生し、燎原の如く拡がった。寝室は病室と化した。健康者は病者と隔離して、区隊ごとに一室雑居することになり、学課術科共に出席少数の故に屡々休憩となり、余等は暇あるごとに寝室に集っては縦談横語した。
 余はつとした動機より、当時流行の大本教の解剖をなした。(中略)けだし当時余は帰省の度に故郷の在郷将校より入信を勧められ、自身もまた多少書に就きて研究もして居たのである。
 …げにそは時あたかも米騒動の直後であり、--天災--全国にわたれる暴風雨の惨害、労働者の暴動に等しき罷工怠業等と眼のあたりに見、思想界の紛糾混沌は左右両派の衝突、滔蕩文弱の毒潮淫々として横流せる、一々心に応えるもののみであった。

 ここ⇧から判るのは、1918年頃の日本は、「流行性感冒発生し、燎原の如く拡が」り、「寝室は病室」と化し、「健康者は病者と隔離し」、「学課術科共に出席少数の故に屡々休憩」。
 
⇒要するに、感冒(インフルエンザ)が大流行して病人続出、病人隔離で学校は休校閉鎖。。。😅😅😅
 …因みに西田氏は、この後学校で予防注射(ワクチン)を打ち、大正11年1月には『胸膜炎のために激動を禁止され』と記述が見られます。しかし、剣道大会の練習に無理をしたため高熱を発して入院。結局、以後この長患いは回復することなく、陸軍士官学校のエリート・コースから外れたのでした。

 。。。えーと。。。感冒ワクチン接種との因果関係は解りませんが💦💦、心筋炎や胸膜炎は、それまで壮健だった青年男子へ重大な健康被害を引き起こす可能性があり。。

 それと、この頃日本は『大本(おおもと)教』が大流行。西田氏の郷里鳥取県では将校らに大本教信者が多かったようです。自然災害が頻発、米騒動、労働者スト、言論はリベラル派と保守派の衝突、教育界の頽廃による弊害で若年層の知識レベル低下等々…。あらゆる社会不安要因が満載だった模様。
 えーと。。。支那事変の20年前ーー。。。😵‍💫😵‍💫

 さてこの同じ章に、こんなことが書いてありました。⇩
  「余は『馬賊の唄』を作った。」

 この部分⇧を読んだ時、何となくどこかで見た覚えがあり、それであっと思い出したのが、こちらの文章でした。⇩

「俺も行くから君も行こ 狭い日本にゃ住み飽いた
 浪隔つ彼方にゃ支那がある 支那には四億の民が待つ
 御国を去って十余年 今じゃ満州の大馬賊
 亜細亜高嶺の繁間より 繰り出す手下が五千人

 大正末から昭和初期にかけて一世を風靡した「馬賊の唄」(作詞・宮島郁芳)である。日本軍の中国進出が急ピッチで進むこの時代、若者達にとって、大陸雄飛は限りない夢だった。」
    牧久氏著『特務機関長 許斐氏利 風淅瀝として流水寒し』より 

 先の記事日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様・おまけで登場した戦前特務機関長許斐氏利(このみ うじとし)氏は、『2.26事件』以降に憲兵隊から厳しくマークされた為、大化会会長岩田富美夫の好意で大陸へ渡りました。
 その場面に出て来るのが、この唄。

 先ず『馬賊』って何?という方のため、ネット情報はこちら⇩

「馬賊(ばぞく)とは、騎馬の機動力を生かして荒し回る末から満洲国期に満洲周辺で活動していた、いわゆる満洲馬賊が有名。」

 なるほど、、、許斐氏利氏は、満州・安東(現遼寧省丹東)地区司令部付き将官だった伊達順之助氏の元で馬術と射撃の訓練を開始しました。この伊達準之助氏は、昔日の読売新聞小説『夕日と拳銃』のモデルだったそうです。当時の日本男児のロマン、、、それが『馬賊』だった模様です。

 この、『馬賊の唄』をネット検索したら、当時は一定期間本当に一世風靡してたみたいで、色々と出て来ました。

映画『夕日と拳銃』の主題歌作詞:佐藤春夫 作曲:古関裕而
『馬賊の唄』作詞:宮島郁芳 作曲:不明・鳥取春陽
*雑誌
「日本少年」連載小説、池田芙蓉作「馬賊の唄」
などなど。。。唄に、小説に、映画の題名にと、『馬賊の唄』の商標バリューはかなり大きかったに間違いありません。

 西田税氏が自伝中に言う、「余は『馬賊の唄』を作った。」はどういう意味なのか? ←これを探るため、西田氏自伝中この文章の前後を含めて引用してみます。⇩

 「げに楊柳青く垂るる江河の岸に馬に飲う馬賊を想い、広漠涯なかるべき満蒙の大原野に報国一片の赤心に鞭うつ暗中の飛躍の志士に思いを寄せては、(親友と)二人坐臥に堪えぬものあったのである。余は『馬賊の唄』を作った。『日東男児蒙古行』を作った。又『日本改造の概歌』を作った。そして二人は高唱した。同感の友は漸次にそれらを口吟し初めた。」

 このように、明確に『唄』ですね。陸軍士官学校で同窓生らと肩を組み大声で合唱してた、そしてそれが他学生へも輪の様に広がり、歌い継がれたというようなイメージです。

 ここでふと、先の記事興亜会(こうあかい)発起人曽根俊虎(そね としとら)が記した『法越交兵記』(1886)で引用した、宮崎滔天(みやざき とうてん)氏の文章を思い出します。⇩

 「これまた亡兄の筆跡にして、明治六年、馬賊の一群支那一角に蜂起せる時、在清の曾根君に寄せたるものなりき。書中の一節に曰く、
 『先般馬賊の一群蜂起せりとの報あり、爾後状景いかがに御座候や。早速御詳報下され度候。事によりては万事を放棄して直ちに大陸に踏み込み度きものに候。島国の事に至っては一も謂うべきものなし。唯一日も速かに大陸の空気を呼吸仕り度、それのみ相楽しみ待居り申し候…』」
         
宮崎滔天著『三十三年の夢』より」

 宮崎滔天氏の長兄八郎氏が、清国に滞在中の朋友海軍軍人曾根俊虎氏へ宛てた手紙に、混沌、鬱屈する日本社会から飛び出して、大陸の空の下で自由に呼吸したい…、と書いてあり、どうやら当時の日本男児は皆このような心境にあった模様です。。。(←バブル崩壊直後に大学を卒業した当時の私と全く同じ。。。😅😅)

 それで、ネットで検索したところ唄は主に二つあったんですが、、、 
 先ず、映画『夕日と拳銃』の主題歌作詞:佐藤春夫作詞 作曲:古関裕而)をYou Tubeで聞いて見ましたが、、、こちらはやはり映画・TVドラマ挿入歌がぴったりな雰囲気。曲は昭和歌謡風のメロディで、詞はいかにも詩人作、軍人が肩を組んで唄えるイメージが湧いてこない…。それに、そもそも映画製作年は、1956年です。
 では、もう一つのYou Tube『馬賊の唄』作詞:宮島郁芳 作曲:不明?鳥取春陽?はどうかというと、、、これは、西田税氏の自伝中のイメージと正に本当にぴったりなんですよね。。。

 これは、どういうことでしょうか。。?
 こっちの『馬賊の唄』の、作曲者は大概『不明』と出ますが、作詞者は必ず宮島郁芳(みやじま いくほう)氏と出ます。
 新潟県柏崎出身の宮島郁芳(みやじま いくほう)氏とは、こんな方。⇩

 「新聞配達などの末、順天中学卒業。演歌師となり学資を稼ぎ早稲田大学文課予科に入学。大正7年24歳、浅草で芝居『金色夜叉』が好評なことから想を得て『金色夜叉』の歌を作詞作曲。公園などでバイオリンなどを弾きながら歌うと爆発的なブームを呼んだ。その後『流浪の旅』、『馬賊の唄』などを発表」
               こちらの⇒HP から

 ここ⇧から知るに、宮島氏がいう発表時期は、大正7年以降の少なくとも数年後の大正10年以降と仮定して、、、この時何故、作曲者は公表しなかったのか、ちょっと不思議ですよね。
 上記の「池田芙蓉作、雑誌『日本少年』連載小説『馬賊の唄』」は、大正14年(1925)から五年間続いた人気小説だったのです。この頃日本中は『馬賊ブーム』の真っ最中--。
 どんな音楽家でも多少の功名心はある筈ですし、世間に名を売るこんなチャンスに絶対に名乗り出たいのが人の心。
 なのに、作詞者は名乗り出て、作曲者は名乗り出ず。戦後現在までもずっと『不明』のまま。。。

 これは、完全に私の推測ですが、、、😅
 この『馬賊の唄』は、西田氏が自伝中に「余は『馬賊の唄』を作った。」と書いている様に、元々は本当に西田税氏が作って、同窓生らと肩を組んで歌いあっていた、しかしそれがあまりにも秀逸な出来で、学校中に知れ渡り、陸軍士官候補生誰もが口ずさむようになり、後輩に歌い継がれ、市中にも出て行き、街でも口ずさまれ…といった経緯だったのではないかと思います。
 もとより、西田氏は音楽家でも詩人でもなく、ただの軍人でした。巧利名声などを一番嫌った、至極真面目で潔癖な性格だったみたいです。
 多分、”誰が作った?”とか、どうでもいいという様なさっぱりした人だったと思います。

 『2.26事件』は1936年。
 東京陸軍軍法会議で死刑が言い渡されて、翌年8月に死刑が執行されました。
 その後に、『あの唄』を…、実は誰が作ったの……?なんて、もし知っていたってもう口に出すことも、語る事も、声を挙げることも誰も出来ない言論統制が続いたのが、当時の日本でした。

 『馬賊の唄』作曲者は大抵『不明』。ですが、陸軍幼年・士官学校出身者有志など一部のYou Tube動画に作曲者名があるものあり。
 『作曲:鳥取春陽』 
 鳥取の春の陽。一体誰でしょうか。。

 昭和11年2月26日は、朝から本当に寒い日だったそうです。
 祖国日本を想い、家族を想い、民族の未来を想い、腐敗不正、差別不公平、社会悪を憎み、社会改造と社会弱者救済を志し、あの日起ち上ってくれた青年将校達のことを、本当にもう一度、あの日2.26に、あの時一体どうでどうしてああなったのか…。今こそ、日本社会全体で、私たち日本人一人一人が学び直す時が来ているのではないかなと、最近何故か強く感じます。

 暗くて不安だらけで、戦争ばっかりの世界へ捲き込まれる日本に、やり直そう、寒く冷たい冬もいつかは明ける、春は直ぐそこ、諦めちゃ駄目だよ、と。
 令和日本も頑張らないとーー、あの世で税(みつぎ)さんや将校さんたちに笑われる、、と何故かそんな心配する私。(←変な人(笑)😅)

 


 

 
 

 


 
 

 
 

 


 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 


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