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ベトナム王国皇子クオン・デ候 最期の帰国声明文 『全越南国民に告ぐ』

 クオン・デ候とは、独立革命家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と同じく明治時代末に日本へ亡命してきた旧ベトナム国(当時は仏領インドシナ連邦の一つ)の皇子です。
 先の記事「仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(2)」に書きましたように、40年もの間海外(主に日本)で抗仏革命活動を続け、1951年に日本の病院でお亡くなりになりました。

 1950年にクオン・デ候は決死の覚悟で祖国帰国を試み、本来計画通りならば、経由地タイに上陸成功後、『クオン・デ候 帰国声明文』をメディア発表する手筈にしていました。しかし、どういう経緯か事前に情報が洩れ、タイ上陸は失敗します。その為に、この帰国声明文の存在は、私たち戦後の日越子孫の目に入り易い形では取り上げられて来なかったのでしょう。。

 しかし幸運な事に、大南公司の社長だった松下光廣氏がこの原稿を大事に保管し、生前に郷土史家北野典夫氏に手渡し、北野氏の手により『天草海外発展史』に収められていました。
 原稿日付は1950年5月3日。下記の原稿全文に所々解説を少々入れて置きます。個人的に、クオン・デ候自身によって語られる1950年頃の様子は、世界情勢の解説一考としても大変興味深い内容だと思っています。

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 ≪全越南民族に告ぐ≫

 流離44年、余は今、故郷に帰る。 越南よ、越南の人々よ、
余が老躯を挺して献ずる祖国への行動を、余が満腔の情熱を捧げる独立への念願を、心あらば汲たまえ、意あらば聞きたまえ。
 
 余が若冠国を脱してより、亡命の居を移して転々幾度か、春風に憶い秋風に祈り、 一日として忘れざりしは、 “越南の復国”である。
 もとより亡命の身、生命の危険は到る処に在り、異郷の客に人生の苦難は言語に絶するものがあった。余は、不屈の信念と不撓の意思を以て、祖国の独立の日まで、あらゆる試練に打ち克つべく闘いつづけた。一顧すれば茫々60有余年の足跡、一篇の“生ける歴史”として鮮かに余が脳裏に纏綿する。
 然るに、前途なお遥々として荊棘の道が重畳し、余が不退転の勇気を鼓舞するが如く、祖国の命運はいよいよ多難である。

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生命の危険は到る処に在り・・・フランスは、反仏運動の統領クオン・デ候の逮捕令を早くから発し、長い期間に亘って国内外に捕縛密偵網を張り巡らせていました。
流離44年・・・救国の志を立て、クオン・デ候がベトナムを脱出したのは1906年28歳の時でした。その日以来、国に残した妻子とは一度も逢えないまま異国日本で亡くなりました。
祖国の命運はいよいよ多難・・・1945年8月日本敗戦後、アメリカの支援を受けたフランスが再びインドシナに戻り北ベトナム軍と交戦を開始。ベトナムは再び戦火に包まれました。

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 越南、嘗て南海に誇りし秀抜なる文化国、安らかなる楽土、伝統の道義。 
 彼のヨーロッパ植民地軍の銃剣に汚された歴史を、今や自らの血潮もて清めつつある越南の同志よ。諒山
(ラン・ソン)の野に、安沛(エン・バイ)の夜に、はた刑場の土に、幾度、革命の紅血を屍山の裡に葬りたる彼の三色旗は、今や永遠にアジアを去る日が到来した。

 余は、最早、遠隔の国に焦慮の炎を燃やすに耐え得ず、遂に一切の忠告も打算も常識も余自身の健康も生活も顧みず、帰国を決意した。帰心は正に矢の如くして一筋に祖国の運命に突入した。
 余は知らず、余の老躯が激しき祖国の現実によく生を保ち得るかを。然し余は、40年前、既に決死の覚悟を体得した。生命、家族よりも更に偉大なる祖国への至上の愛に於て、而して其れへの献身を。 余は今や、越南のために、余が生涯の総てを捧げて悔いず。余は此処に、余が抱負を述べて、広く全国の同志に訴えんとす。

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諒山
(ラン・ソン)の野・・・前年のフエ条約締結後、諒山で清国軍と戦闘し敗退したフランスが、翌1885年に再び戦火を交え諒山を奪回、占領した役のこと。
彼の三色旗・・・
フランス国旗のこと
激しき祖国の現実・・・日本敗戦後のベトナムは、既に『反仏闘争』の枠を超え、南北分断共産主義新勢力を加えた非常に複雑な情勢に変わっていました。
既に決死の覚悟を体得・・・
クオン・デ候は、13歳の時と、28歳で国外脱出をした時、そして、日本を国外退去となり、乗船前に柏原文太郎氏から自決用の拳銃を渡された時など、人生で幾度も死の覚悟をしました。

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  (1)完全独立を要求す
 “フランス連合の枠内における独立”とは、“仮装したる植民地再征服政策”にすぎない。越南国にとっては、外国資本の鎖国を絶ち、外国軍隊の撤退を実施せしめる事が最大にして必須の条件である。 バオ・ダイ現政権の“傀儡的性格”は国民の支持を得ざるは当然にして、同胞相争うの悲劇を現じ、越南の国際的信用を失わせしめるものである。越南国政府は、フランスと対等の地位に於て、条約、協定を結び、一切の政治的経済的軍事的国家主権を恢復する事に努力すべきである。 諸外国、特にアメリカ当局が、完全独立に対する越南の全国民的要求を理解する事を期待する。

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フランス連合の枠内における独立・・・
帰って来たフランスと保大(バオ・ダイ)帝の南ベトナムは手を結びました。
外国資本の鎖国を絶ち、外国軍隊の撤退・・・独立国としての基本条件だと言う意味だと思います。
 
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  (2)国内戦を停止すべし
 一国内に2つの政権が同居して、全く無用の犠牲をのみ多くし、真の目的たる祖国の独立を遅延せしめある罪は正に重大である。 直ちに同胞対立の愚を止めて、早急に統一政権を樹立せねばならぬ。嘗てのスペインの如く、外国軍隊の試験場的戦場となるべきではなく、ギリシャの如き同胞相殺の悲惨事は断じて避けねばならぬ。祖国の統一によって越南人は一丸となり、集中的な力を祖国の独立と進展のために用いねばならない。 越南人の真情は、総て“祖国の独立”を唯一の念願としている。その達成の手段に於ける種々の問題及び政策――国民投票、国防軍の編成、農地改革、経済開発、 教育制度、宗教問題等――は、統一政権の樹立によって民主的に決せられるべきで ある。

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嘗てのスペインの如く・・・『ゲルニカ爆撃』
で知られる1936-39年『スペイン内戦』のこと。外国勢力・共産勢力の加勢で国民は引き裂かれ、戦車・軍用機の大量投入で国民の大勢が犠牲になった。
ギリシャの如き同胞相殺・・・第2次大戦中、ギリシャでは列強国と枢軸国が介入・進攻した。共産勢力による解放戦線が組織され、大規模な国内内戦に発展した。

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  (3)独立精神を堅持せよ
 越南の独立は、越南人自らの手で闘い取るべきである。越南民族の負うべきものは、越南の歴史的現実にして、決して他国の利害であってはならぬ。 資本主義的植民地政策の覉鉡を脱しようとして、共産主義的戦略戦術の奴隷になる事は、再び越南の未来を“不幸の歴史”たらしめるであろう。一切の外来の物資と思想を、確固たる越南の独立精神によって摂取し吸収し、国家的血肉たらしむべきである。 越南は、いついかなる時においても、自由な民主主義国家として成長せねばならない。

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資本主義的植民地政策・・・利を得るのは資本家と土民高級官僚のみ。一般人民は常に搾取対象とされる政策。
共産主義的戦略戦術の奴隷・・・『戦略・戦術・分析・評価
』を信奉する者=共産主義の奴隷?!←注目ですネ。(笑)😅
            
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  (4)アジヤの平和勢力たらむ世界は、米ソ2大国の対立によって、欲すると否とに拘らず、2つの陣営に分裂して第3次世界大戦の不安に脅えている。越南は、アジアの諸国と提携して、世界の左右衝突の中に“平和の砦”を築く使命を担うべきである。 先ず、ラオス、カンボジア両隣邦に、過去の感情的対立を排して善隣政策を以て臨むべきである。タイ国は、伝統的なアジアの中立国家である。従って平和的外交協定を結ぶ可能性がある。中国とは、中共革命の成功による新しき民族的前進に、 偏見なく接すべきである。インドネシヤは、オランダ植民地史に終止符を打った。 越南の民族的同志と言えよう。 印度が、「越南の保-胡(保大帝=バオ・ダイ帝、胡志明=ホー・チ・ミン)、 いずれの政権をも承認せず。」という態度を示しているのには、健全なる統一政権の出現を待つ深き配慮が看取されて、アジアの第3勢力結集に当って最も信頼すべきものがある。 斯る一連のアジア民族運動は、越南の民族独立運動への絶大なる支柱となって、 必ずや越南のために“勝利の日”を早からしめるであろう。

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米ソ2大国の対立・・・
当時は「東西冷戦」「鉄のカーテン」等がありました。
第3次世界大戦・・・
当時は「世界核戦争で地球滅亡の危機」が叫ばれてました。。。えーと、今は「露ウ戦争と温暖化でエネルギー(燃料・食料)危機」💦(笑)
ラオス、カンボジア両隣邦・・・古来から民族国境紛争あり。
健全なる統一政権の出現を待つ深き配慮・・・東京裁判で「日本無罪」を主張してくれたのも、インド人のパール判事でした。

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  (5)青年の力に期待す
 国家の興亡は、青年の力に懸る事、古今東西を通じて変らぬ真実である。 現在、祖国独立のために決死の闘争を鉄火の中に戦いつつある若人達、来たるべき独立の日に祖国の不動の地位を護るべく懸命の任務を負うている青年達、更に国際的潮流の中に独立越南の将来を輝かしき歴史の頁に書き綴るべき若き世代。越南は、諸君の知性、信念、勇気、友愛、そして諸君のその魂の中にのみ生きている。

 以上、余は、基本的な項目を要約した。余は、越南の現実を余自らの眼に見、余自らの心に掴んで、更に具体的な行動方針を熟慮深考して、余の活動に資するつもりである。
 最後に、余が魂を汲み、余と行動を共にせんとする同志諸君、来たりて余が手を握りたまえ、来たりて余がために援けられよ。而して越南の新しき歴史を創りたまえ。
             彊(クオン・デ)謹記

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青年の力に期待す・・・クオン・デ候潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、古武将、提探(デ・タム)将軍潘廷逢(ファン・ディン・フン)らから、勇気と至誠のタスキを受け取った第2世代でした。ですからこの時、安沛(エン・バイ)事件で犠牲になった『ベトナム国民党』の阮大学(グエン・ダイ・ホック)に代表される第3世代へ向けて、革命闘争を越えた先にある新しい国創りへの期待を語ったのかと思います。

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 1950年5月のこの「帰国声明文」は、クオン・デ候の聡明さ、誠実さ、謙虚さ、無私の心、祖国と同胞に対する大きな愛…そんな人柄で溢れています。
 太平洋戦争後に日越で故意的に流布されたという、「亡命先の日本で遊び呆け祖国も家族も忘れた愚鈍なベトナムの皇子」のいい加減なデマ・悪評など、一瞬で消し飛ばす威力があります。

 「明(マ)号作戦」直後の短命政権首相だった陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の著書『越南(ベトナム)史略』の序文(⇒1945年4月誕生 独立ベトナム内閣政府|何祐子|note)も、こんな文章で絞められてます。
  「…本書は、「史略」であって、過去の大きな出来事をアウトフレームに、史実編史として体裁を整えたものである。(中略)将来、最も待望されるのは、我国の「正史」が編纂されることであるから、この「史略」を土台にして、更に詳しい研究や批判討論が活発になされるよう、どうかこの後、賢明なる読者先輩諸氏皆さまには、我国の歴史学の礎のためご功労を頂けますようにと祈るばかり。
 今我らが身にまとっている着物は絹織物ではなく、綿織物だ。当然品質は良くないけれど、とりあえずは寒さを凌いでくれる。言いたいことは、今日我国の青少年誰もが、自国史を正しく知れば、自分の祖国に対し引け目など感じることなど決して無い。それが、編者の唯一の望みであり、もしその心が読者に届いたならば、この本「ベトナム史略」は、それだけでも有益な本だと言いたい。」

 日越の古書には、先人達の決死の足跡と共に、民族の未来を担う私たち子・孫達への愛と希望で満ちた伝言が遺されてます。
 近年は、詐欺・横領・粉飾・強盗など、黒い事件が頻繁に発生する不安定な世の中ですけど、古書に埋もれてた伝言を発見する度に、ふいに目の前に微かな光が差し込こんで、”迷わずに正道を歩みなさい”と、いつもどなたかの優しいお声が聞こえるような気がしてます。
 

 
 

 
 
 
 

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