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ベトナム独立を支援した福岡の人々 ~玄洋(げんよう)社・黒龍(こくりゅう)会~

 私事ですが、自宅の引っ越しでバタバタしまして、一カ月ぶりのnote投稿です。。。😭
 PCに向かうのも久々、今日は、ベトナム阮(グエン)家のクオン・デ候とべトナム独立を支援したと史料に遺る、陸軍松井石根(まつい いわね)(予備役)大将が主幹を努めた団体『如月(きさらぎ)会』と、その主体(と云われている)『黒龍(こくりゅう)会』を取り挙げてみたいと思います。
 『如月会』の名は、ベトナム抗仏関連史に度々登場します。

 「…松井石根大将の後押しで、女婿の参謀本部の第八班長、永井大佐が中心となっていた、クオン・デ候を後援する如月会…」
       神谷美保子著『ベトナム1945』より

 「犬養毅が暗殺された後、クオン・デへの資金援助を始めた松井は、頭山満が顧問を務める「黒龍会」の関係者を中心として「如月会」という組織を結成する。この如月会が中心となって、終戦の日までクオン・デらベトナム独立運動家たちへの精神的、経済的な支援を行い続けたのである。」
           牧久著『安南王国の夢』より

 ⇧上の『永井大佐』とは、第33期の永井八津次大佐です。

 私が翻訳出版したクオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』は、5.15事件で殺害された犬養毅(いぬかい つよし)元首相以外の日本人支援者(松井石根予備役大将や松下光廣大南公司社長など)や支援団体(如月会や黒龍会)への言及が殆どありません。
 私はこの理由を、この自伝が日本側(一部)の手配によるものであり、『明(マ)号作戦』(1944年3月9日)直前にベトナム復国同盟会とその会主のクオン・デ候を軍内部へお披露目する目的だったと推察していますが、それはさておき、あの頃クオン・デ候とベトナム志士を影から絶大に支援してくれていたと思しき『如月会・黒龍会』、是非是非その実像とクオン・デ候らベトナム人志士との関係を知りたいと思って来ましたが、残念ながら未だ詳細情報を綴った古書に出会えていません。。。

 そもそも、明治34年(1901年)設立の『黒龍(こくりゅう)会』が一体どんな縁で昭和に入ってフランス植民地支配からの独立を目指すベトナムとクオン・デ候を支援したのか? ←この部分は史料不足なので取敢えず、会の創立者である筑前福岡藩の人、内田良平(うちだ りょうへい)氏自伝『硬石五拾年譜』(昭和53年出版)の『黒龍会の創立と事業』章から、元々どんな団体だったのか?だけでも調べてみました。
 まず先に、内田良平氏とはこんな方(写真は⇧)です。⇩

 「明治7年2月11日、内田良五郎の第3子として筑前福岡大円寺町に生まれる。時に佐賀戦争勃発の際にして、福岡の士族は江藤新平の挙に応ぜんとするもの多く、鎮撫隊編成して形勢を窺えり。父良五郎鎮撫隊の編成に力を尽くし、寺院に屯集して家に在らず。将に出征の途に就かんとする際出生したりしかば、叔父平岡浩太郎来って良助と命名せり。のち甲と改めまた良平と改む。」
         内田良平著『硬石五拾年譜』より
  
 「福岡大円寺町」は、現在の福岡市中央区唐人町だそうです。叔父の「平岡浩太郎」福岡藩士で初代玄洋社社長、自由民権運動家、衆議院議員です。
 自伝によりますと、内田氏の出生年には佐賀戦争、3歳の時は熊本・神風党の変乱長州・萩の乱、筑前・秋月騒動があり、翌年4歳の時は西南戦争が勃発。大円寺町の自宅が密会所となり父も叔父もこの挙に加盟。この事が、「深く幼時の脳裏に印象せられ他日志を起こすの素因ともなれり。」と書いてます。

 内田良平氏の自伝中で非常に痛快なのは、明治28年の22歳の時に長崎から浦汐斯徳(ウラジオストック)に渡航し、西比利亜(シベリア)を横断してモスクワ・ペテルブルグまで調査旅行した時の記述です。その他にも「比律賓(フィリピン)独立軍援助と布引丸」や「拳匪の乱と革命党援助」など興味深い内容の章が多々ありますが、今日は黒龍会の設立のみにスポットを当てたいと思います。⇩

 「黒龍会の創立と事業

 これよりさき(明治34年)2月13日、同志伊東正基、葛生玄晫(のち東介と改む)、葛生修亮、吉倉旺聖、宮崎来城、本間九介、高田三六、増田良三、可児長一、中野熊五郎、平山周、山方泰、中田辰三郎、権藤震二、尾﨑行昌、辻暎、佐野健吉、田野橘次、秋山長次郎等、20余名麹町下六番町なる余の宅に集合し、旧冬相談会を開き計画したる大陸経営の結社創立を実現せしむるため、その趣意書草案及び仮規約を疑義し、2月3日神田区錦町錦輝館において発会式を挙行せり。(中略)余主幹に挙げられ、幹事3名、乗務員2名、調査員5名、評議員30名を指名せり。」
             『
硬石五拾年譜』より

 実はお恥ずかしながら…、私はベトナム史に興味を持つ以前は玄洋社など全然知らず、ネットだと大抵右翼団体と説明があるため、必然私の子供の頃の思い出=東京に行くと走っている大音量で喚き立てるカーキの宣伝車=市民の敵…、これが右翼団体だと長年勘違いしてたのです。。。😅
 右翼で、しかも『黒龍(こくりゅう)会』という怖もてな会名。きっと右翼は右翼でも相当怖い団体…。黒スーツに黒サングラス、背中には龍の彫り物、そして真っ黒の宣伝カー…、なんて勝手に想像してましたが(笑)、実際は至極真面目な団体です…。(当たり前か…😅😅)

 「蓋し会名を黒龍会と称したる所以のものは、西比利亜(シベリア)満州の中間を流るる黒龍江を中心とする大陸経営を策せんとするの意に出づるなり。…黒龍会本部を芝区西久保巴町28番地…」

 黒龍江(=アムール江)から命名。そうなら、別名『アムールの会』とも云えるのかも。。😅 ロシア研究に特化してた様ですし。

 「3月より会報をし、対露論を主張す。ために第2号は発行を禁止せらる。5月に至り雑誌『黒龍』を発行し、益々日露の開戦を主張し、発売頒布を禁止せらるること数回に及びたり。(中略)正確なる地図を製作して国民の北方に対する知識を啓かんと欲し、(中略)次いで露西亜の対支経営の実状を知らしめ対露の興論を喚起せしむべく『露国東方経営部面全図』と称し、東西西比利亜及び満州朝鮮に関する精密なる大地図製作に着手せり。」

 時の外務大臣小村寿太郎の即座の了承を得て、外務省と陸軍省の予約買上げで製版資金を得たのでしたが、この地図はその後、
 「その精密正確なること発行後に在りては倫敦(ロンドン)タイムスの如き欧羅巴の大新聞に至るまで長篇の論文を以て讃評せる程完全せる地図たりしなり」
 
この様に欧米に於いて、『日本人が作ったロシア地図が凄いぞ!!』と物凄い話題になった模様です。。。それ以外にも、⇩

 *『露西亜亡国論』発行
 *露西亜語学校『黒龍語学校』創立。
(場所は神田錦町神田中学校内)
 *日露協会の創立

 内田氏によれば、「黒龍会同人は露国事情の図書雑誌の発行及び講演会等に寧日なく忙殺せられ」、通常会員と賛助会員は凡そ240名。要するに当時日本に於けるロシア研究の最先端で最大機関だったのかと思います。その為でしょうか、2.26事件西田税(にしだ みつぎ)氏の自伝にも、黒龍会は登場します。

 「哲学的興味を主として禅に濺いだ。『亜細亜時論』を購読した。大川周明氏の日印協会脱退の壮烈なる文字に魅せられしも同誌。満川亀太郎氏の亜細亜問題の諸論文を飽かずに読んだのも同誌。内田良平の名は幼時より知って居た。そは朝鮮問題その他からである。時には赤坂溜池の黒龍会本部を訪いしこともあった。」
          
 西田税著『戦雲を麾く』より 

 ところで内田良平氏は、明治7年(1874)生まれ、没年は1937年(昭和12年)で享年63歳です。
 ベトナム国皇子クオン・デ候は1882年生まれ、内田氏の8歳下。

 クオン・デ候が初めて日本に来た1906年(明治39年)は黒龍会設立5年目ですので、時間的にも、クオン・デ候の周囲を取り巻く環境からも、クオン・デ候や東遊留学志士らは確実に犬養毅元首相などを通して、内田良平氏や黒龍会と知己を得て交流があった筈だと私は想像しています。

 そして、実はこうして情報の断片を繋ぎ合わせて行くと、大変興味深いことが浮かび上がって来ます。。。

 クオン・デ候が1939年(昭和14年)に設立した『ベトナム復国同盟会』に関して、松井石根大将は1945年7月の朝日新聞紙上でこの様に語っています。⇩

 「自分も頭山、犬養両翁から頼まれて、(クオン・デの)面倒を見た、支那事変がはじまってから、安南で国民運動にたずさわっていた各党派が団結してはどうかという話が出て来た、そこで上海で大同団結した越南復国同盟会が結成された。」
        『朝日新聞』1945年7月30日付

 なるほど、、松井大将は、「頭山、犬養両翁から頼まれて、(クオン・デ)の面倒を見た」とはっきり言っており、これを深読みすれば、「両翁に頼まれて『黒龍会』を土台に『如月会』を組織し、その会頭に自分が就いた」、という経緯だった可能性が浮上します。。。
 尚且つ、「安南で国民運動にたずさわっていた各党派が団結してはどうかという話が出て来た」と言うのですから、当然これは『如月会』から出て来た話だ、とすれば、話の前後が実にすっきりするのですが如何でしょうか。。。😊😊

 支那事変前まで、貧乏のどん底で寝返り者が続出、潰滅状態だったベトナム革命党
 そんな彼等が俄然猛烈に動き出したのが1937年(昭和12年)です。

 長い間活動資金と革命運動支援者がなかった彼等に、大南(ダイ・ナム)公司というビックスポンサーや大川周明氏(満鉄の東亜経済局調査局)が支援に就いたのだ、、、と、これは確かに如何にも納得の行く説明ですが、しかしそれは所謂『表看板』のように見えます。支那事変で大混乱最中の中国大陸に散らばったベトナム志士らを訪ね歩き、資金を与え、彼等の大同団結を成功させ、その後日本政府・軍へと繋いだ…、そんな大仕事など普通の日本人とにわか仕度の団体・組織では到底不可能な筈です。
 戦前文書や関係者らの自伝中にも殆どその名とベトナム独立活動支援の実態が書き遺されていない隠密活動を担った『裏看板』とも云える団体、『ベトナム復国同盟会』の結成含む、全てのグランド・デザインを描き実行した太い団体の正体、それが『如月会(主体黒龍会)』ではないでしょうか。。。

 黒龍会主幹だった内田良平氏は、1937年(昭和12年)にお亡くなりになりましたが、時間的に自身の死後のベトナム支援に関して頭山満翁や松井石根大将、黒龍会会員らへ申し伝えただろうと仮定して、、、

 ではそもそも、何故に、『黒龍会』がベトナムを支援したのか??

 この問い⇧の答えを、私なりに探してみました。
 それで時間差はありますが、クオン・デ候の言葉と内田氏の言葉がぴったり重なる記述を見つけたので、其々下記に抜き出してみます。

 こうなると、支那事変の10年以上前から、此辺の人々の念願は一致していたという証拠に思えます。角度を変えれば、その想いが爆発的に起動した起爆剤があの支那事変だったという見方もありなのかな…と、これはあくまで私見ですが、そう考えたりしています。。。😌😌

  **************

 「…、私は今日、安南国民党代表の資格で参加しています。安南人の多年の困苦の情況や、フランスの東洋保護政策の横暴な手段、悪劣政策について述べれば、ご参加の諸君の大多数は、かの獣性的文明人の圧迫を受け、また現に受けつつあり、わが安南人と同じだと思います。(中略)安南はアジアの交通の中枢地に位置しています。そこに世界人道革命軍の大本営、すなわち根拠地を設置し、幽閉あるいは圧迫されている各民族を解放したいと、この二十有余年、念願して来ました。」
  『大阪朝日新聞』 1926年8月4日付 夕刊
   (1926年8月1日~3日まで長崎で開かれた『全亜細亜民族会議』会場に於いて、身分を隠して参加したクオン・デ候の檀上演説)  

 「…。時に長野義虎なるものあり。かつて福岡二十四連隊に在営し曹長たり。日清の役台湾に入り、後ヒリッピンに渡航してヒリッピン独立の気運頗る熟せるものあるを観取し、(中略)曰く「ヒリッピン独立の機運熟せるものあれば、この際独立を助けて我が勢力を南洋方面に扶植すべし」と。余これを聞きその説に賛し、長野に謂って曰く「先頃露都滞在中海軍大佐八代六郎と語りし時、八代曰く『馬来(マレー)半島よりヒリッピン群島に我が海軍根拠地を得、国防の第一線となすにあらざれば太平洋上の制海権を握り帝国永久の安全を期すべからず』と。」 
       内田良平著『硬石五拾年譜』より
    (1896年(明治29年)、内田氏22歳の頃、フィリピンから帰国した旧識の友長野義虎氏と再会した時の回想。)

 

 
 

 
 

 
 
 
 

 

 


 


 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 
 
 


 

 
 


 

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