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大川周明先生が語る 将軍石原莞爾(いしわら かんじ)の最期

 いつも常に、”ベトナム”の文字を探しながら古書を捲っていると、思いがけなく意外な文章を見つけることがあります。

 先日、『近代日本を創った百人 上』(毎日新聞社 昭和40年)をパラパラしてたら、こんな文章が目に留まりました。⇩

 「”人間バーベキュー”と呼ばれたベトナム仏教徒の焼身自殺は、全世界に大きなショックを与えたが、それに似た例が日本にもないわけではない。」

 先の記事南北分断後の1960年代-南・ベトナム共和国で発生した”仏教徒弾圧”背景一考で、ベトナム共和国(南ベトナム)建国後に起こった仏教徒僧侶による焼身自殺での抗議運動を取り挙げたところでしたので、”おおっ!!”と思って題名を見たら、
 「石原莞爾と満州建国」。論文著者は『大宅壮一』氏。

 はて…?…戦後の学校歴史書の中では『満州事変』(=柳条湖事件、昭和6年9月18日)首謀者だとされてる元関東軍石原莞爾氏が、一体なんの関係があるのかな???、と読み進めた文章はこのようなものでした。。。⇩

 「山形県の酒田市に海向寺という寺がある。そこには人間のミイラが安置されている。(中略)…日本のミイラは、生存していたときの身分、姓名をはじめ、死んだ時期もちゃんとわかっているのである。
 …”即身仏”すなわち生きながら成仏することを希望し、まず自分で一丈二尺の穴を掘り、その中に鈴をもって入り、その上から土をかぶせてもらい、息ぬきのために竹の筒を一本立てておく。そして鈴を鳴らし、経文を誦しながら死んで行ったのである。
 やがて、適当な時期を見はからって、親類縁者があつまって、これを掘り起こし、幾日間も絶え間なしに線香をそなえる。かくして人間のクンセイが出来上がる。(中略)
 同じ仏教徒といっても、ベトナムの焼身自殺者は、僧侶もしくはそのタマゴで、いわばプロであるが、山形の生き埋め自殺者は農民すなわちアマチュアである。前者はベトナムの現状に対するレジスタンスから出たものであるが、後者がこういった死にかたを選んだ動機は、もっと、平和的、自発的で、周囲の圧力とか、群集心理とか殉教精神とかいったようなものは認められない。
 …この信仰は”出羽三山”(月山、湯殿山、羽黒山)にこもる修験者を中心に、古くからこの地域に広く普及していたものだという。
 この地方から、文人では高山樗牛、右翼の指導者としては大川周明、軍人では石原莞爾、…などが出ている。
 この人達に共通している点は、いずれもそれぞれの分野で、一種の天才的才能の持ち主であるとともに、…求道的、教祖的な面をもっていることである。」

 論文著者は、石原莞爾(いしわら かんじ)氏についてこんな説明をしています。⇩
 「この中で、もっとも多くの追随者をもっていたのは、なんといっても石原であろう。石原の主宰する『東亜同盟』の会員もしくは准会員は、最盛期において、十万人に達したという。それも軍人ばかりでなく、新聞記者から農民、中小企業者など、広汎な大衆の間に、熱烈な信奉者があって、さながら一つの独立した新興宗教の教祖に近い存在であった。
 昭和24年8月15日、郷里に隠棲していた石原が、多くの”同志”に看取られながら、持病の膀胱結石で亡くなったときは、全国からはせ参じる会葬者をはこびきれなくて、臨時列車2台が仕立てられたという。」

 前回の記事「クオン・デ候を”南一雄(みなみ かずお)君”と呼んでいた 大川周明(おおかわ しゅうめい)先生のこと」の大川周明(おおかわ しゅうめい)先生も同じ山形県酒田市出身で、丁度このとき郷里に戻っていました。
 その折に病臥の石原莞爾氏を見舞ったことと、その時の様子がご著書『安楽の門』に書いてあります。⇩ 

 「さて、私が母親の骨を埋めるために帰郷したその日に、久しく病臥して居た石原将軍が、数日前からいよいよ危篤に陥り、家人は既に葬式の用意まで整えて居ると聞かされた。…私は翌朝早速将軍の病床に駆けつけたが、面会しても話は数分間しか出来まいとのことであった。私は長居をしては病人も苦しかろうし、顔を見るだけで満足せねばなるまいと思いながら病室に入った。見ると将軍は、からだを横たえると肺臓に水が溜まって呼吸が出来なくなるというので、床の上に積み重ねた蒲団によりかかって居た。
 将軍と相対して先ず私が驚いたことは、あれほど長い間、異常に苦痛を伴う病気に悩み続けながら、その顔には微塵も暗い影が無く、実に穏やかな微笑を湛えて居ることであった。そしていたく私の来訪を欣び、決して瀕死の病人と思えぬ明晰な言葉で、いつもの通り話の筋道をてきぱきと運び、世界と日本との将来に対する透徹した予測、法華経についての深い理解を、それからそれと語りつづけて、前後実に40分にわたった。」

 大川先生の来訪前までは、数分間話すと昏倒して来た重病人だったのに、この時は40分間も常人と変わりなく話し続けたそうです。
 初めは、病気に障るだろうと心配した大川先生も、

 「説き去り説き来る将軍の話に聴き入るうち、いつしか瀕死の重態などということを忘れ果て唯心に耳を傾けた」といい、「善知識の説法を聴聞する厳粛敬虔な気持で、ほとんど一言もさしはさまず、唯将軍の一言一句に耳傾けて、これを吾が胆に銘記した。」

 そして、語り終わった後で、大川先生にこう語ったそうなのです。

 『…将軍は、その名のように莞爾たる面持で、
 「日蓮聖人は還暦でなくなられ、私も聖人と同齢で往生するのは、まことに有難いことです」と言った。(中略)将軍は、
 「あの8月15日で、私のこの世の務めは終わりました。それに私の生命は生理的に疾うに尽き果てて居り、生きていても苦しいだけであるが、周囲の者が薬だの輸血だのと騒ぐので、このからだを任せて置くのですよ」
 と語った。これは深草の元政上人の臨終の時と、そっくりそのままの心境である。(中略) 
 私が将軍を見舞ったのは8月13日であったが、私との長い談話が将軍の生命の最後の躍動となり、越えて8月15日、将軍がこの世の務めはこの日で終わったと言ったその8月15日早朝に、将軍は遂に大往生を遂げた。日本人が永遠に忘れることの出来ぬ日が将軍の命日となったのである。
 私は、将軍の存命中に帰郷し、存分に大説法を聴聞し得たことを、亡き母の引き合わせであろうと有難く思った。』
        
 大川周明著『安楽の門』より

 数分間話すと意識が昏倒していた重病人なのに、大川先生来訪では40分間も常人と変わらずに話し続けたとは、やはり見えない何かの力が働いていたのか。。。昏倒した時は全く意識を失った状態のように見えても、本人の語るところを聞いた大川先生は、
 「この昏倒の間に法華経の真諦について深い理解を把握し得たとのことであった。激しい疲労のため、五官の活動は一時中止しても、将軍の異常な脳髄だけは、整然とその機能をはたらかして居たのであろうか。」

 と、こう⇧書いている大川先生自身が、数か月続いた白昼夢』の中でマホメットと対話した後で、古蘭(コーラン)完訳の偉業を成し遂げた-この述懐と何となく類似してる様に思えますが、気のせいでしょうか。。。😅

 論文中に大宅壮一氏が、
 
石原の主宰する『東亜同盟』の会員もしくは准会員は、最盛期において、十万人に達したという。それも軍人ばかりでなく、新聞記者から農民、中小企業者など、広汎な大衆の間に、熱烈な信奉者があって、さながら一つの独立した新興宗教の教祖に近い存在」
 
と書いてますが、これはもう『教祖に近い』ではなく『教祖』そのもの。もし戦争の無い時代だったら、正真正銘の『教祖』だったでしょう。。 

 それで、、やはり、、
 石原莞爾将軍はどう考えても、日蓮聖人の生まれ変わりでしょうね?💦 それでどうも、大川周明先生の身体を借りてたマホメットが、今世を離れる前の日蓮聖人に会いに行ったみたいですよね💦💦??😅😅
 ”おーい、次はお互い、いつどの姿でこの世に来る??” なんて、色々打ち合わせして行ったとか、でしょうかね。。。💦😅😅
 不思議な話です。
 
 『大東亜戦争史』とは、調べれば調べる程奥が深いんだなぁ…と、昭和バブルを越え、50歳過ぎた最近になってやっと思う人生の秋。。。😌😌😌

 
 
  

 

 

 
 

 

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