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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第3章 日本へ~ 

 横浜に亡命していた清国の梁啓超(りょう・けいちょう)の紹介で、大隈重信(おおくま しげのぶ)と犬養毅(いぬかい つよし)に面会した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)光復会の会主の日本渡航を勧められた彼は、一旦帰国しクオン・デ候へ報告書を送りました。
 クオン・デ候の出国は、翌年の1906年旧正月の頃。親切な中国人の船員のお蔭で香港へ無事到着、丁度香港へ来ていた抗仏志士開明派の雄、潘周禎(ファン・チュ・チン)と逢い、2人で共に日本へ渡りました。

 日本からの武器援助は容易ではないと判った為、人材育成に力を入れることにします。これが後に『東遊(ドン・ズー)運動』と呼ばれた愛国運動です。
 福島安正陸軍大将が校長を務める『振武学校』に入学したクオン・デ候は、幼い頃からの漢語素養のお蔭で直ぐに日本語が上達しました。つい日本語の書籍を読み耽り、振武学校の勉強を後回しにしてしまった、と述懐しています。(1905年8月~1908年初頭)


**第3章 日本へ**


乙巳(1905)8月、潘佩珠は鄧子敬と共にベトナムに戻りますが、ベトナム国内で、既に自分達の日本渡航情報が洩れ、世間に知れ渡っていたことを知ったのです。
 その為、昼夜用心深く行動して、ゲアン省では人目を避けて移動し、私の居るフエには用心の為近づきませんでした。

 私は、鄧子敬が単独で届けに来た報告書に目を通し、 先ず日本での援助要請の結果を知りました。そして、私の日本渡航が急務なこと、故に急ぎ渡航準備をするようにと書いてありました。

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