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東遊(ドン・ズー)留学生が学んだ『東京同文書院(東亜同文書院)』の前身『日清貿易研究所』を創設した、尾張藩・荒尾精(あらお せい)

 戦前クオン・デ候を支援する団体『如月(きさらぎ)会』の発起人だった松井石根大将ですが、 同時に『大亜細亜協会』(昭和8年創設)の会長でもありました。
 『大亜細亜協会』は、 1933年3月1日発足です。協会設立には軍関係者以外に近衛文麿(このえ ふみまろ)氏、広田弘毅(ひろた ひろたか)氏など政府要人も名を連ねています。その名から分かる通り『大亜細亜主義』を標榜する団体で、原点は明治初期発足の『興亜会・興亜主義』に根差しています。
 1907年頃に東遊(ドン・ズー)ベトナム人留学生が学んだ東京目白の東京同文書院(旧目白中学校)の運営団体だった東亜同文会も、古くはこの『興亜主義』の流れを汲むそうですので、時代を少し遡って明治初期の『興亜主義』頃の先覚たちを順次取り挙げて行きたいと思います。
 今日は、尾張藩の荒尾精(あらお せい)(1859- 1896)氏です。

 荒尾精は尾張藩出身の陸軍将校で、明治19年(1889)に参謀本部の命で清国へ情報将校として赴任しました。
 上海『薬店楽善堂』の岸田吟香(きしだ ぎんこう、美作(岡山)出身)の支援を受けて、荒尾精は『楽善堂漢口支店』を現在の中国武漢(ぶかん)市に開設します。店主として書籍、薬品、雑貨販売に従事しながら、彼の元に集まった志士らと共に大陸事情の調査研究に力を注ぎました。その調査方法というのが、こんな感じ。⇩
 
 「志士たちは、或る者は薬品や書籍を背に負う行商人となり、或る者は易者、医師として大陸各地の人物、土地、被服、陣営、運輸交通、糧食薪炭、兵制及び諸製造所、山川土地の形状、人口の粗密、風俗の善悪貧富などを、軍事的、経済的見地から悉く実地踏査した。」
               『筑前玄洋社』より 

 これこそ、正に『実地調査』と呼べるかと…。昔の人はやっぱり凄い。。😵‍💫😵‍💫😵‍💫
 私もベトナムで長いこと仕事しましたけど、日本人駐在員さんは官も民も漏れなく、”自分の足”で、”自分で体当たりで”現地調査した強者を一度も見た事がないのでちょっとビックリです。(笑) 
 『組織に忠実で、日本語が素晴らしく上手く学力も優秀で、かゆい所に手が届き、調査能力に長け、本社に提出できるレポート作成が上手いベトナム人社員』。。。そんな『夢のベトナム社員』を抱えようと皆さん躍起ですけど、正直そんな人が現地でゴロゴロしてる訳なく(笑)😅。
 結局、”自分の目で耳で足で”掴まずに下から吸い上げただけの現地情報など、本社提出用レポートの行数を上手く埋める位しか大して役に立たない。辛いですけど、現実です。。。💦💦😭😭

 しかし決して、現代の日本人が昔と比べて劣っている訳ではないでしょう。100年以上前と現代とでは心得も気構えも何もかもが違う。そう考えると、条件と環境が変われば、現代の私達世代の日本人にもこんな秘めた力が眠っていると思うと”ワクワク”しませんか?!(←超ポジティブな元キャリア・ウーマン、今田舎の主婦。。。😅) 

 話を『楽善堂漢口支店』に戻します。。。
 日本の志士達は、ここを大陸探索の拠点とし、志を同じくする志士を探し求めたそうです。その『心得・人物の部 君子』とは、、、
 「1,君子
   東洋君子の志左の如し
 ・道を修めて全地球を救う     第一等
 ・道を修めて東洋を興す      第二等
 ・国政を改良して其国を救う    第三等
 ・子弟を鼓舞して道を後世に明にす 第四等
 ・自朝に立ち国を治む       第五等
 ・独自淑して機の至るを待つ    第六等 」

 ええと、、戦後世代の私等は今まだ、『第六等』に列するか。。😂 

 荒尾精は、政府要人からの資金斡旋もあって、『楽善堂漢口支店』の次に、明治23年上海に『日清貿易研究所』を創設しました。
 
 「(明治)26年6月、89名の卒業生を出した(日清貿易)研究所は、27年日清戦争開戦によってやむなく閉鎖に至るが、開戦後、前線で軍の通訳、軍事探偵をつとめた者の多くは研究所の卒業生だった。」
             『筑前玄洋社』より

 こうなると、なにやら後の陸軍中野学校や大川塾の前身とも思えます…。

 荒尾精は、明治29年に台湾旅行中ペストに感染して39歳の若さで世を去りました。
 その後の明治34年、共に『日清貿易研究所』設立に奔走した盟友の根津一(ねず はじめ)氏が院長となって設立されたのが『上海東亜同文書院』ですので、これが『日清貿易研究所』の後身と云われる所以でして、その関係あり、『根津一(ねず はじめ)』というお名前がベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝に何度か登場するのです。
 物事全て、『繋がっている』んですよね。。。😊😊

 記事の〆に、「敵の中に置いても荒尾は殺されない」と評された程、人を魅了し、”この人の為なら”と思わせる力を持っていたと云う尾張の人・荒尾精(あらお せい)の人物評を、玄洋社の頭山満(とうやま みつる)翁の言に見てみたいと思います。

 「僕は大に荒尾に惚れて居った。諺に5百年に一度は天偉人を斯世に下すとあるが彼は其人ではあるまいかと信ずる位に敬慕しておった。
 彼の事業は其至誠より発し、天下の安危を以て独り自ら任じ、日夜孜々として其心身を労し、多大の辛苦艱難を嘗め、益々その精神を励まし、其の信ずる道を楽しみ、毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局の為めに尽せし其奉公献身の精神に至っては、実に敬服の外なく、感謝に堪えざる所であって、世の功名利欲を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と全く其選を異にし、(中略)…凛乎たる威風の裡に、一種云う可らざる柔和にして、且つ能く人を安んじ人を魅する魔力を持って居った。」

 やはり、日本という小さな島国を出て世界で活躍しようとする時であればこそ、その志は目先の損得勘定や上下忖度、どの人・派閥へ与すれば(組織・社内で)自分に有利なのかなど憂うことなど無くして、「魅了された人々が自発的に動き、結果的に事業が成功してしまう」、そんな秘訣がここに全て書いてあるような気がします。

 ”仕事は 至誠より発し
 天下の安危を 独り自ら任じて
 日夜 其の心身を労し
 多大の辛苦艱難を嘗め、益々その精神を励まし
 信ずる道を楽しみ
 一身一家の私事を微塵も顧みず 
 功名利欲を主にして小得にあくせくする輩と全く異にすること”

 100年以上経った今日でも、十分教訓になると思います。。
 私がそうでしたが、日本人が島国から飛び出すと世界の荒波とカルチャーショックで心が折れ、時に初心を忘れて権利主義や利権者に頭を垂れたくなる時が有りました。。。
 そんな時には、明治期『興亜主義』頃の日本の偉人達の姿とそのメッセージを常に思い出したい。😊😊😊
  
 
 


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