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仏領インドシナに在った日本娼館と明治時代の廃娼運動・救世軍による廃業届の勧め 

 以前こちらの記事⇒ベトナム独立運動家が見た、西洋植民地支配下の『弱者ビジネス』」で、”鬼👹の重課税国家”だった仏領インドシナ(独立前のベトナムのこと)時代の究極の弱者ビジネス、娼妓税=売春婦に課した税金を取り挙げました。
 その中で、当時仏印(ふついん)南部コーチシナの大都市サイゴンにあった日本娼館の存在に少々言及しましたが、⇩

 「その頃のサイゴンには、一番娼館から五番娼館までが並び、ハイフォンなど大きな港町にも日本娼館があった。
 …香港あたりに大ボス何某がいて、上海、サイゴン、マニラ、シンガポールなどを拠点とする人身売買の組織網を張りめぐらしていた。
 …同じころのシンガポールの娼館には、4百人前後の日本人娼婦がいた、という証言を聞いたことがある。」          
          
 牧久著『安南王国の夢』より

 戦前の人々の間では、日本から海外出稼ぎする娼妓たちを『娘子(じょうし)軍』と呼んでいたそうで、後藤均平氏著『日本の中のベトナム』には、海軍中佐木村甚三郎の報告書による当時のインドシナ在留日本人一覧表(1913年2月調査)が掲載されています。
 これによると、ハイフォン、ハノイ、サイゴンなどなど…、ミト、プノンペンを含む合計13の都市で働いていた正式登録の日本人醜業婦(娼妓のこと)だけでも約120人超で、その内一番多いのはやはり大都会サイゴンの26人。これら売春館は、香港辺に本拠地を置くボス何某の傘下だったというのですから、当然薬物もセットだったでしょう、フランス文学者の小松清氏は、この頃のサイゴンにあった闇を伝えています。⇩

 「ハノイでは、阿片(あへん)の吸引の大っぴらに行われているところはないが、サイゴンはまるで喫茶店のように公然と営業されている。(サイゴン)駅の近辺から港の方にかけて、到るところに阿片窟がある。…看板には、どこでも公煙開燈と書いて、傍らに屋号がしるされてある。…吸入者は昼となく夜となく、入れかわり立ちかわり出入りしている…」
         小松清著『仏印への途』より

 仏印植民地政府は、官制の『阿片専売局』(1898年ポール・ドゥメール総督が南仏印阿片専売公社を設立)を設けて阿片吸入を奨励した上で、法外な『阿片税』をかけました。以前こちらの記事→「ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(3)に苛酷な植民地支配下の重課税実態を書きましたので、宜しければご一読お願いします。😌

 話を『仏印の日本娼館』に戻すと、海外渡航未経験で売られて行く女性が自分で旅券や船便を手配したり、入国審査を受けたり、現地で予防注射摂取や諸々の滞在手続きなど出来る訳がなく、当然香港のボス何某の手下の仏印業者へ届けるまでを受け持つ日本側業者がいたわけです。
 一体どんなシステムになってたのかな、と考えていた折、『近代日本を創った百人』(毎日新聞社 昭和40年発行)下巻の中の「山室軍平と廃娼運動」という論文を読みました。😅

 論文冒頭に、「公娼制度は豊臣秀吉の時代に始まり、徳川時代に異常な発達をして明治に入った」とあったので、ネットでこの『公娼制度』を調べましたら、「公娼とは公に営業を許された娼婦」のこと、反対に「公の営業許可を得ていない娼婦を私娼」と定義するそうです。

 。。。ここで、以前記事にした尾﨑秀実(おざき ほつみ)氏の獄中書簡中の或る文章が思い起こされます。。。⇩

 「…戦争は日本の旧弊を打破する一契機をなしています。実に各般にわたり否応なしに、古いものがこわれてゆきますね。待合や、高級料理店、歌舞伎芝居のための大劇場--そうしたものは当然清算さるべきものだったのです。古い封建的なものが、明治以後の資本主義的な外被を借りて生き残って来たのです。(更に制度としての公娼廃止まで行くべきでしょう。公然と公娼が認められているということは何と言っても日本文化の恥です)。--勿論このことは社会の日陰に私娼などの存するであろうという事実とは別個の問題です。」
    『愛情はふる星のごとく(昭和19年3月30日付書簡)」

 1941年10月にゾルゲ事件で検挙されて死刑となった尾﨑秀実氏が、獄中から妻に宛てた手紙の中で、『公娼制度の廃止』に言及してました。尾﨑氏曰く、『日本文化の恥』。その公娼制度と、その廃止運動の背景(明治~)を今日は纏めてみたいと思います。

 先ず明治維新後の明治5年に「娼妓芸妓業年期奉公人一切解放」が宣布されました。続いて、「娼妓芸妓は人身の権利を失う者にて牛馬に異ならず…云々…」という司法省布達がでます。『公娼解放令』です。
 この当時の『公娼=公けに営業を許された娼婦』とは、一体どんな身分だったかというと、⇩
 
 「前借金と称する身代金で、貸座敷業者と称する奴隷売買人に売られ、稼業を強いられた。廃業したくても楼主と三業組合(=料理屋、待合、芸妓屋)長との同意捺印がなくては警察で受け付けない。自分らの利益に反することに捺印する楼主と三業組合長のあろうはずがなく、彼女らは泣き寝入りの状態であった。」
       山室民子著『山室軍平と廃娼運動』より

 要するに、父親が博打などで作った借金の質に女郎屋へ売られて一旦『公娼認定』を受けてしまうと、借金を返したところで妓主と産業組合長の同意捺印が無ければ『公娼廃業届』を警察が受け取らない。。。?💦💦
 な、なんとも真面目すぎる日本の警察とその強固な『公娼制度』。。。だからといって、自分の意志に反して職業選択の自由がない環境、そんなのは単に人身の権利を失った牛馬同然だ!!と、堂々と本当の事(=日本のタブー)に触れちゃったのが『廃娼運動』だったという訳・・・。😅 

 そして、明治32年に函館で或る娼妓が起こした廃業訴訟を皮切りに、名古屋ではアメリカ人宣教師モルフィイが娼妓の廃業を手助けするなどして、徐々に日本中へ広がり始めました。

 「娼妓の自由廃業を社会運動に盛り上げたのは救世軍であり、山室軍平(やまむろ ぐんぺい)だと言われる。明治33年6月、先輩のイギリス人士官と山室は名古屋にモルフィイを訪問、…機関紙『ときのこえ』を特集し世論を喚起するとともに、娼妓らに廃業を勧めた。…救世軍人10数人が吉原で演説し、その新聞を配布した時には、暴力団を動員して打つや蹴るやの活劇を演じ、警察隊によりようやく鎮まった。」

 『救世軍人(きゅうせいぐんじん)』は、東京の洲崎(すさき)にあった遊郭では廓側が雇った数百人の暴徒に袋叩きにされ…とも書いてあり、娼妓救出事業は正に命がけ。。。と、ところで『救世軍』って何だろう…という方(私を含め…😅)の為に、こちら⇩

 「救世軍は1865年、ウィリアム・ブースにより創立された。最初は「東ロンドン伝道会」と呼ばれたが、事業の発展に伴い「キリスト教伝道会」と改称、間もなく「救世軍」と称するようになった。…進撃的なプロテスタントの運動で、民衆の間で伝道し、…現在(=昭和40年頃)、世界の69の国々で伝道や社会福祉の運動や事業を営んでいる。」

 救世軍創立者のウィリアム・ブースはメソジスト教会の牧師で、その頃のロンドンは、犯罪、不道徳、貧困、失業、人口密集等々の社会悪が蔓延していたそうです。日本には明治28年に渡来、横浜に着いた一行は14人、指導者の名はライト大佐。
 ということで、暇人主婦が早速ネットで調べました😅ら、サイトがありました!⇒救世軍 - The Salvation Army Japan - 英語では、『サルベーション・アーミー』といい、なんと私の日本の実家の直ぐ傍にも事務所があり。(全然知らなかった…😵‍💫😵‍💫) サイトによれば、2022年時点で世界133の国と地域で活動中とのことで、昭和40年から約2倍に増えているようです。

 話を明治日本の廃娼運動に戻しますと、明治28年に渡来したイギリスの救世軍と出会った山室軍平の行動は日本政府当局を動かし、明治33年、時の内務大臣末松謙澄(すえまつ けんちょう)により『娼妓取締規則』が発布されました。その内容とは、

 1,娼妓の自由意志による廃業
 2,楼主や産業組合長の捺印不要
 3,所轄警察署への名簿削除申請手続き可
 4,自由廃業妨害者への厳罰処分
 5,娼妓年齢の下限引き上げ(満16歳→18歳)

 発布の政治的背景には「日英同盟」の締結が控えていたと云います。なぜなら、当時「公娼制度は、しばしば国際的な問題」であり、「1929年の婦女売買禁止第8回委員会」において日本代表が”日本国内の廃娼運動の結果による進歩”を報告したり、「同年9月第10回国際連盟総会第5回委員会」でも、武者小路公使が日本代表として同様の事を発言するなどして、「辛うじて列国間にわずかに面目を保った」というような状態だったのです。
 うむむ。。。これは、国連加盟国に対して、日本は未だ国の制度に『公娼制度』なんか維持してて面目ない状態だ、という意味ですので、これが何とも上述のゾルゲ事件で検挙された尾﨑秀実氏の獄中書簡中に見える「日本文化の恥」という表現にぴったり嵌っています。。。
 
 国の恥部である『公娼制度』、じゃあ、廃止!と簡単に行かないその背景には、当然その商売に従事してた方々の存在がありました。。。⇩

 「貸座敷業者は、娼妓に廃業の権利があることを知れないよう用心し、また、廃業を防ぐ警備を堅くした。…警察では実際にその婦人が届出の本人であるかどうかを確かめるために、楼主を警察に呼び出すのが常習となった。この時、警察官が自廃の主旨を理解する人であれば、もちろん救世軍側の勝利となる。…人身売買の可能を信じる警官だと、楼主に味方し(娼妓の)廃業の意志を翻させようとした。…警察官は…かえって貸座敷業者を呼び出し、彼等と一緒になって何時間も娼妓に説諭して、廃業を断念させようとした。」

 。。。本来、救助してくれる立場の筈の警察が、人身売買組織とグルなんて…。😭😭 途方に暮れた娘さんたちも多かった筈。そんな廃業希望の娼妓さんたちを、山室軍平は励まし続けたのです。

 「口から出任せの追従軽薄は、いやと云うほど聞いておいでなさろうが、真実あなた方のためを思うて相談相手になってくれる人は一人もない。気の毒なる御身の上を思うにつけ、どうしても黙っておられませぬから一筆書いてあなた方にさしあげるわけであります。(中略)あなたがたはいつまでもこんな仕事をよい仕事のように考えて居ってはならぬ。ぜひ共速かにかかる道ならぬ世渡りを止めようという決心をせねばなりませぬ。そんならどうしてこの職業を止める事ができるかと申すに有難いことには明治の御代の御法則では、よしあなた方にどれ程の借銭があるにもせよ、活きた人間をその質(かた)にとって、無理につらい勤めをさせることは出来ぬという事が、ちゃんと明白に定まって居りまする故、あなた方が唯ぜひ共この厭らしい仕事を止めるという覚悟を定め、廃業届というものをその筋へ差出しさえすれば、その借銭の有無に拘わらずあなた方は直ぐに女郎を止める事ができるようになって居ります。勿論女郎屋の亭主はあなた方に仕事を止めさせる事を好まぬ故、何とかいろいろ故障を入れ、又は若い衆などを頼んで邪魔をさせるかも知れませぬが、唯道理は右申す通り明かでありますから、根気よく辛抱してどこどこまでも押し通して行きますならば、つまりあなた方は自由の身になれる筈なので、云々…」
  
『ときのこえ-山室軍平筆 娼妓への勧告文』より

 女郎とは売春婦、今はデリヘルとかキャバクラとか様々に呼び名が変化しても、昔から『お金、弱点の為に春を売る社会的弱者』です。
 女郎屋は現代の斡旋業者、現代だって行政府に登録制度があり。
 若い衆などは現代でいう反グレ全身タトゥーの強面お兄さん達とか、こんなのに脅されたら恐怖でしかない。。。😨😨😨

 それでも…、必ず『廃業』できる、だって法律がそうなっているのだから、と山室軍平が平易な文章で説いた理由は、「娼妓らを罪悪と無知の生活から救うため」
 なるほど、、、😑😑😑
 賤しい職業に就いたお前はもう罪だ穢れだという、斡旋業者からの洗脳。
 借金があるから廃業など出来ないという斡旋業者の嘘や騙し。

 ホストに嵌って借金を作り、性稼業に身を落とす日本の若い日本女性というニュースを最近よく見ます。借金払え!払えないならココで稼げ!返済しろ!←この詐欺の流れは、明治娼妓たちの「前借金と称する身代金で、貸座敷業者と称する奴隷売買人に売られ、稼業を強いられた」境遇と全く同じ。

 ついでに言えば、最近のジャニーズ性加害問題にも似てますね。。。😅😅
 明治の娼妓へ、警察など本来弱者を守る立場の人間が、業者と結託して廃業を断念させようと説得した話など…、ジャニーズ問題被害者の方の、相談したマネージャーから我慢するよう説得されたとか、テレビ関係周囲の性加害を容認するよな特異な環境などの告白内容に似ている様に感じます。
 長期間に亘った日本の大手芸能プロダクション社長による未成年含む青少年への性加害事件。実際は、日本の芸能・メディア界ではとうの昔から有名な話で、大人皆が皆、権力に巻かれて見て見ぬふりをして来たのです。 
 そのタブーを破って告発報道をし、世間から疎外され続けてた被害者救済へ道を拓いたのは、日本のメディアではなくイギリスのBBC放送でした。
  
 明治28年に明治日本に着いた救世軍ライト大佐は、日本の新聞記者から運動方針を訪ねられた時、短くこう答えたそうです。

 「日本人をして日本を救わせるという、それだけである」

 戦後日本の芸能界で長期間放置されて来た未成年含む青少年への性加害問題。今年イギリスBBC報道に押された形でやっと日本の大人たちが動き始めた今の状況は、明治時代の廃娼運動との非常な相似性を感じませんか。。。

**********

 話を仏領インドシナの日本娼館に戻しますと、、、
 救世軍の廃娼運動は、三業組合等にとっては憎い仇で余計なことして商売を邪魔する疫病神。でも娼妓たちにとっては救いの神様です、法律を知るきっかけになった訳ですから。
 しかし、その法律の効力範囲は日本国内のみで海外は対象外ですので、東北辺りから法に『無知』なままの若い娘をまっすぐ海外へ送ってしまえば、三業組合商売人にとって2重の安全が担保できる。
 廃娼運動の流行、国際関係上で面目を保ちたい日本政府の『娼妓解放令』など厄介だ…、それよりも海外なら無法で自由で安全な、最高の優良市場な筈です、三業組合にとって。
 
 そこで、ふと思い出すのは、ベトナム独立運動家のファン・ボイ・チャウの自著『ベトナム亡国史』(1906年=明治39年)の中のこの文章。⇩

 「この30年、列強の一商船もヴェトナムの港に来なければ、列強の一国も、ヴェトナムに商館や領事館を開こうとしなかった。 しかし私には、その各強国がフランスに丸めこまれているとはどうしても思えない。 あるいは何か訳があって、ただ私がそれに気がつかないだけなのかも知れない。(中略)彼らがその秘密にしている実情が外国に漏れるのを恐れているのでなくて何であろう。」

 奇怪にも鎖国する仏領インドシナ政府の、”鎖国を許す”国際社会の不思議さを指摘してたのです。

 それに、ファン・ボイ・チャウ『獄中記』上海で翻訳出版(1929年=昭和4年)した南溟生氏(←日本人)も、序文中にこんな事を書いてました。⇩

 『爾来数十年、邦人のヴェトナムを説く者なく、その国情を知る者が少ない。 (中略)これを外務の要路に問えば、”アンナンはこれ暗黒秘密の国、得て窺うべからず。窺うを要せず」と。仏人の鎖国令を傍観して、一指を染むべからずとすることかくのごとくである。」』

 要するに、その頃の日本政府は、西洋列強国に倣い仏領インドシナを故意に無視してた訳です。。。

 整理すると、
 ・イギリス救世軍が横浜に上陸し、国内で廃娼運動が盛り上がり、
 ・対外的には公娼制度に対して国際会議や国連総会の厳しい指摘に苦しい言い訳。。
 ・海軍中佐がインドシナ在留日本人の内訳調査。

 。。。推察するに、多分当時の日本政府も世間一般も、海外へ売られて行く若い犠牲者たちの存在を知りながら、日本国内にとっては都合がいいので大人の皆が皆、見て見ぬふりをしてたのか。。。
 
 


 
 
 

 


 
 

 

 


 
 


 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


 
  

 

 

 

 

 

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