イロトリドリのセカイ その一隅を照らす

 Yushi(ゆーし)@探究の教師(@yuhidora)さんが投稿していたツイートを目にして、いろいろ考えた。

 10年前の自分だったら、「そんな指導に、教育的効果はない」とリプライしていただろうと思う。教師が「これこそ教える意味がある」と思っていることを授けるからこそ教育的価値があるのだと信じていたからだ。

 けれど、さっきの僕はそう考えなかった。
 「教えることに意味は感じない」の主語は、教師だ。
 教師が意味を感じなかったとしても、子供は感じるかもしれない。
 何に意味を見出すかは、子供たちに委ねられている。

 それらを、僕という教師一人の価値観で「意味がない」と断じてしまうのは、恐ろしいことだ。「教師が意味を感じないからやらない」ではなく、子供たちと一緒に楽しみながら学ぶ姿勢をもつことも非常に大切だと思う。

 先週、道徳の授業で教科書教材を使って授業をした。
 正直言って、僕自身は、資料にあまり魅力は感じていなかった。だから、ほとんど指導書通りの授業を行っていた。けれど、子供たちがやけにその教材に食いついて、アレコレ話し合っていた。僕は、子供の話を聴きながら、「そうか、そういう見方もあるよねえ。」といった反応を返していた。
 
 もしも僕が、その資料に強い思い入れを持って授業をしていたら、同じようなことが起こっただろうか。多分、起きなかったと思う。

 がっちり教材研究して授業した場合、だいたいの子供たちの反応は予測済。だから、同じ「そうか、そういう見方もあるよねえ。」という言葉を言ったとしても、込められている実感が全然違う。僕が心からその資料に興味が無くて、子供の話を聴いて初めて興味をもったときの言葉に比べたら、演技掛かった、わざとらしい反応になってしまうだろう。子供たちはそんな反応をすぐに見抜く。見抜かれたら、授業の熱は途端に引いていく。(適当に教材研究して子供に委ねちゃえ、という話ではない。念のため。)

「意味があるか、ないか」という判断を子供たちに委ねることで、学びは本当の意味で子供たちのものになっていくんじゃないかな、と考えている。あまり教師がそこをコントロールしすぎると、意味があるか、ないかの判断を、子供たちは教師に委ねる癖をつけてしまう。
 教師が「意味あるの?」と感じていることでも扱っていくことの価値は、ここにあると思う。

 じゃあ、教師は「自分が教える意味がある」と信じるものを、子供に授けてはいけないのだろうか。僕はそれに対しては明確に「NO」と言いたい。そもそもそれをしなかったら、教師をやっている意味がない。僕には、僕なりに子供たちに伝えたいものがある。

 ここで大事なのは、その「伝えたい」ものを研ぎ澄ますという作業がとても大切だということ。「伝えたいと思ったから、全部伝える」だと、どうしても受け身の人を育ててしまう。
 探検に行って、どこに何があるかを全部ネタバレされたら、つまらないのと同じ。広くあちこちを照らすのではなく、いつも灯りがついたベースキャンプを1か所つくるイメージ。
 1年間使うのだから、テントの骨組みはしっかりとしたものにしなければいけない。なぜそこに建てたのか、しっかり説明できなければいけない。

 もしかしたら、そのベースキャンプは、ある子には合わないかもしれない。でも、恐れることはない。「私には、ここのベースキャンプの作り方が合わないんだな」ということが分かればよい。ベースキャンプから離れたセカイから、自分に合うやり方を見つけてくるかもしれない。そうだとしたら、ベースキャンプは「比較対象」として機能したことになる。それはそれでいい。

 イロトリドリなセカイの中の一隅を照らし、「授ける」モード。
 そして、子供たちといっしょにイロトリドリなセカイを探索する「共に学ぶ」モード。この2つを意図的に使い分けていく力、その2つのバランスを最適にコントロールする力が、今の時代の教師として立っていくために、大切なんじゃないかな、と思う。

「授ける」ための言葉や技術を磨きつつ、
 セカイを子供たちと一緒に「楽しむ」ための柔らかな心をもっていたい。

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