「グラレコの上達には「場数」が必要だ!!!(脳筋)」 「グラレコが上手になるためには、何が必要ですか」と訊かれたら、僕はおそらくそう答えるだろう。これまでも、そう答えてきたと思う。 ただ、この間参加した「グラレコ武者修行の会」という学習会で、ちょっとそのことが話題になった。 「場数」を積んだはいいが一度挫折しそうになった、という仲間の話があった。それを受けて、「場数を踏むことは確かに大切なのだが、より効率的な上達を促すために、<視点をもって>場数を踏む」ことが大切
古舘良純先生の『ボタンの掛け違い』を読んだ。 僕も、自分自身の第5ボタンをちょっと振り返ってみようと思う。 浮かんでくるキーワードは、こんな感じ。 ・ 僕の名前と祖父母 ・ 妹 ・ カーテン ・ 野球とマラソン大会 ・ 手紙 ・ 詩 ・ バンド ・ スキー ・ 小さな居酒屋でのバイト ・ セルフカウンセリング ・ グラフィックレコーディング それぞれのキーワードについて、振り返ってみる。 ① 僕の名前と祖父母 僕の名前の由来を親に尋ねたら、「優しい子になるように
イライラし始めたとき。 どうにかして気分転換をしたい。 そんなときに、最近僕はサウナを利用する。 今日も行ってきた。 気分転換の方法には、いろいろあると思う。 スポーツも、読書も、映画も、料理もいい。 だが、最近の僕にはサウナが一番ハマる。 それは、「思考の世界から、感覚の世界に切り替わる」からだ。 この言葉は、ドラマ「サ道」で「イケメン蒸し男」が言っていた台詞だ。 僕は、サウナ室にいるときは、目を閉じている。 そして、自分の体のどこから汗が流れ出て
SAMRモデルという尺度がある。ICTを授業等で活用した場合に、従来の授業と比べてどの程度の効果をもたらすのかを示すものだ。 S ➡ Substitution(代替) ICTで代替するが、機能はそのまま A ➡ Augmentation(増強) ICTで代替し、機能が改善 M ➡ Modification(変容) ICTを活用することにより、授業の大幅な再設計ができる R ➡ Redifinition(再定義) ICTを活用
渡辺道治先生の新著『授業を研ぐ』を読んだ。 『授業を研ぐ』を読みながら、「玉鋼」を作る職人たちのドキュメンタリー番組を見たときのことを思い出した。玉鋼とは、日本刀を作るために必要な高純度の鋼のことだ。 大きな窯を、3日3晩熱し続ける。砂鉄を入れる量、タイミング、位置などは、熟練の技だ。目で見て、耳で聞き、肌で感じながら、微調整を繰り返す。一度始めたら、途中で止めることはできない。途中で数々のトラブルが起きるが、職人たちは経験と感覚を頼りにそれらのトラブルを解決してい
いっぱい感動の涙を流して帰ってきた。 学習発表会が終わった。 子供たちに「何やる?」と相談して、内容を決めた。それぞれが得意なことを披露するグループ発表と、器楽合奏をすることになった。器楽合奏を子供たちが選んだ理由は、「最後の学習発表会だから、『みんなで』何かやりたい」ということ、そして「コロナの3年間で、(器楽合奏に)チャレンジする機会が無かったから」ということだった。 今までの合奏指導だったら、きっとこんな流れで指導していたと思う。 ① 楽譜を配り、音源を聴
話を聴いてあげる。 こう聞いたときに、どう感じますか。 「聴いてあげる」の「あげる」は、「してあげる」という意味です。こういう気持ちでインタビューの場に入ると、こんな気持ちが湧き上がってはこないでしょうか。 ・ 相手に新しい気付きを起こさせなければならない ・ 相手を導かなければならない どちらもやや上から目線の印象を受けますし、何やら「義務」でやっているような感じすらします。「してあげる」というのは、フラットな関係ではないのです。そのような関係で行われるインタビ
学習規律を徹底して「みんな同じことができる」ようにすることが大事だと主張する人と、多様性を受け容れて「よさを生かす」ことが大事だと主張する人とがケンカをしているとする。 どちらが正しいと思う? あなたなら、何と言ってその場を収める? ケンカにならないまでも、これに似た主張の対立に出会ったことはないだろうか? 僕は数えきれないほどある。そして、自分の思想に近い人の意見を擁護していたような気もする。 『インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』(
「センス」って、いったい何なのか。 考えれば考えるほど分からない。 意味を調べてみると、こう書いてあった。 『物事の微妙な感じをさとる心の動き。微妙な感覚。』 なるほど、と思う。 僕は、人の感情の変化に対して鈍感な方だと思う。 相手が怒っていることに気付けずに、余計なことを言うことがある。 人によっては「大らかでいいよね」と言ってくれるが、自分自身は困っている。どうすれば、人の気持ちが分かるようになるのか。「微妙な感じをさとる」ということは、とても苦手だ。これ
『フラジャイル』という漫画をご存じだろうか。 「病理医」が主人公の医療漫画だ。 凄腕の病理医に、若い医師が一方的に悩みを吐露する。その若い医師に対して病理医が言い放ったのが、タイトルの言葉。 「当たり前のことを素敵に語られるのが一番うるさい」 どきっとした。 「湿り気属」なんて言って、ネガティブな発信を垂れ流している自分が叱られたような気がした。 悩み、自分を見失い、それでも何とかしようとしている。人にはなかなか言えない悩みを抱えているなんて、実は「当たり前」のこ
最近、「武術家の技を実際に喰らって検証して、闇を暴く」みたいな感じのYouTubeチャンネルにハマって、動画をよく見ている。技を受ける方は、闇を暴こう(=本当はそんなに痛くないことを明らかにしよう)とするのだが、どれもこれもやはり死ぬほど痛いわけで、悶絶する姿を見て笑わせてもらっている。 ただ受け手を痛めつけて終わっているのではなくて、達人たちが自分たちの技について解説をしているのも面白い。その中で「一子相伝」と言われている流派同士が似た練習をしている、なんてこともあっ
「○○理解」 ○○に言葉を入れてみてほしい。 どんな言葉が思い浮かぶだろう。入れる言葉は2文字ではなくてよい。 僕は小学校教員なので、「児童理解」が真っ先に思い浮かぶ。 他にも「自己理解」「他者理解」「価値理解」みたいなのも浮かぶ。 まだまだいろいろあるだろう。 こういう言葉は、なぜ用いられるのだろう。 僕は少し前まで、こう思っていた。 「児童を100%理解することを目指そう!」 もちろん、そうありたいと望むことは否定されるべきではない。 「児童のこと
「グラレコ喫茶まさやん」で、いろいろな人にインタビューをしてきた。 人の話を聴いて描く。その中で、話し手さんは「自分が今やりたいこと」を見付けていってくれることがある。その瞬間はとてもうれしい。 あなたは「自分のやりたいこと」を、すぐに言葉にできるだろうか。 僕はそれがとても苦手だ。 その場における「正解」っぽい言葉を探して返すことは得意だ。しかし、自分の意思を問われると弱い。ずっと、人に合わせて、自分の意思を前に出さずに生きてきたので、こういう偏りが生まれたのか
昔は、職員朝会があった。 朝、決められた時間までに職員室に先生方が集まり、あいさつをして、連絡事項を確認していた。それが終わってから教室に行っていた。 しかし、この職員朝会を行っている学校が、少なくなっている。(僕が勤務しているまちに限ったことかもしれないけれど)少なくなった背景は、確か「職員朝会が長引くと、担任が教室に行く前に児童が教室に行ってしまう。そして、そういう空白の時間にトラブルが起きるから」だったような気がする。はっきりとは思い出せないというのが本当のとこ
Yushi(ゆーし)@探究の教師(@yuhidora)さんが投稿していたツイートを目にして、いろいろ考えた。 10年前の自分だったら、「そんな指導に、教育的効果はない」とリプライしていただろうと思う。教師が「これこそ教える意味がある」と思っていることを授けるからこそ教育的価値があるのだと信じていたからだ。 けれど、さっきの僕はそう考えなかった。 「教えることに意味は感じない」の主語は、教師だ。 教師が意味を感じなかったとしても、子供は感じるかもしれない。 何に
20年。 教職に就いてから、気付けばもうそんな年月が経っていた。 今日、山本晃佑さん(@koussssssst3)から、インタビューをしてもらった。いつもは聴く側なので、とても新鮮な気分を味わうことができた。感謝である。 話を進めていく中で、以前取り組んだ「自分の教員人生を一枚のグラフィックにした」ことの話をした。15年分くらいだったろうか。今まで受け持ってきた子供たちとの記録を読み返して、特に印象的だった出来事や、僕が考えていたことをまとめた。 誇張でも何で