見出し画像

自粛警察が怖い本当の理由


はじめて友人の会社の社員向けに、研修をやらせてもらいました。


「考え方が大切」
という信念で自社の社内研修を10年以上試行錯誤しながら行ってきました。

巷で、コロナの「自粛警察」が話題です。

会社経営においても、「警察」が出てくる事で、あらゆる弊害を生み出します。

コロナで
「命を危険にさらして営業するなんてあり得ない!」と社員に正義を言われたら返す言葉がありません。

労働者を守るユニオンも「警察」ですね。

GCでは新入社員研修において、正義=「警察」意識ができあがる構造を理解、よりたかい視座を持ってもらえるような研修をしてきました。

友人の経営者から、社内のコロナに関わる「正義問題」が聞かれるようになったので、

「その研修をオープンにします。」と告知したところ

他社の100名近い社員の方に研修をする事になりました。(zoomでやってます。)

全4回シリーズなんですが、1回目が終わって感じた事や、気付かせてもらったことをまとめてみます。


警察は悪を懲らしめる正義の味方

警察とは絶対的な正義「法律」に則って、悪を罰する役目です。

自粛警察とは、「自粛」が絶対的な正義なんだから、守っていない人を罰しようとする人を揶揄する言葉です。

本来絶対正義なるものは存在しないと思うのですが、人間というのは

「正義で、人を指導する事が好き」

という特徴を持っていると思います。

社員との会話で面白い事例があるのでご紹介します。

入社1年目の終わる3月。

4月から入ってくる、初めての後輩に
「自分たちは何ができるのか?」という課題でディスカッションをしてもらいました。

ほとんどが最初

「〇〇を教えてあげたい。分かりやすく伝えてあげたい。」

みたいな、話をします。(学んだ正義を教えたい)

そこで、質問をひとつ追加します。

「自分たちが、1つ上の先輩にやってもらって嬉しかったこと、むかついた事」

すると

嬉しかったこと
「自分も苦しんでいるとか、弱みを見せてくれたこと。」

むかついた事
「えらそうに、さも正解のように教えてくること。」


みたいな事に気付きます(笑)

後輩のために役に立ちたい。
前向きなエネルギーを持った社員が、一番嫌がられる事をいとも簡単にしてしまう。

これはあらゆる場面で起きていると思います。

子供に「勉強しなさい」と迷いなく強く言う親もこの罠の典型です。

人間としての、この特性を注意深く扱うことは個人で生きる上でも、組織にとってもとても大切なことだと思っています。


信念と正義(固定観念)

研修参加者のアンケート結果を見ていて

「自分なりの正義を持つ事はエネルギーになると思う」

その意見を戦わせる事で、相互に深い理解ができるきっかけにもなる。

「固定観念を恐れて、正義を持てなくなってはエネルギー値が落ちてしまうのではないか?」

という疑問がありました。

確かに、明治維新など時代を動かしてきた人は
「義憤」とも言うべき、正義の強いエネルギーを推進力に時代を動かしてきた人が多い印象です。

しかし、正義を作るということ
=間違っている「悪の人」を作ること
。です。

個人的には、正義と悪を分け、共通の敵を作ったりして(中国、韓国は今もそうですよね)意識を一つにまとめたり、鼓舞するようなやり方は古いと思っています。

様々な未熟さゆえに多くの矛盾を抱えていた昔ならば、「義憤」に値するような絶対的な権力があったのかもしれません。黒人解放や、差別問題なども同様でしょう。

しかし、今、義憤という手段を使って悪を潰すようなやり方が必要かというと疑問です。

正義と非常に似た言葉の「信念」は多くの意見を俯瞰した中で、自ら選んだ考え方なんだと思います。

信念としての正義であれば、違う視点を悪に仕立てたり、頭から否定すべきではないと思います。


悪気がない事がやっかい

正義を語る人は悪気がありません。
というよりも、良い事を言っていると思っています。(正義ですから)

そして、すぐにその罠にはまります。
(僕自身もコロナ警察の気持ちになったりします)

後輩に仕事を教えてやろう。って事が悪意な訳がありません。

悪意がない

だからこそやっかいだと思っています。

感染リスクをを減らす悪意なき「正義」は暴走し、
医療関係者への差別や、都会の人への差別のような感情を産み出しています。

足りないのは、

「違う視点で考える努力」

だと思います。

※コロナによって生活が立ち行かなくなっている人々

※医療に従事している方々、家族の方々

※行政で意思決定に携わっている人々

※実際にコロナにかかってしまった人、その家族

様々な視点で考えつくしたうえでの「信念」なら、対外的に主張することも大切だと思います。

ホリエモンや、維新の会が一貫して主張しているのはそういう事でしょう。

考えつくしていないなら考えつくしていないという謙虚さを持ったうえでの正義であって欲しいのです。

正義は集団で共有され、暴力的なパワーを持つようになります。悪に定義された人を攻撃する力を持ちます。


悪気なく盲目に正義を作る事がたくさんの社会課題を作ってきました。

戦争

資本主義による格差や、環境問題

差別問題

ほとんどが少なからず、人間のこの特性によって作られていると思っています。

国家の正義

資本主義という正義

人種や生まれの正義

こういうものの裏側を良く考えずに、人は悪気なく正義を振りかざします。

国家レベルでも、トランプを中心とした正義が中国を攻め立てようとしています。
そして、中国は自身の正義を振りかざしはじめるでしょう。

同じ問題が、僕たちの身の回りでも起きています。
そして、その当事者は私達です。

社会課題の本質に横たわっているこの人間の特性
それ自体を人類としてバージョンアップできるのか?

多くの人の苦しみを想像し、その苦しみにみんなで寄り添う社会が作れるのか?

この記事が参加している募集

オープン社内報

サポートは恩送りします!