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K-164 ジュリアーノ・メジチ胸像

石膏像サイズ: H.61×W.32×D.33cm(原作サイズ)
制作年代  : 1519年
収蔵美術館 : フィレンツェ サン・ロレンツォ聖堂 メディチ家礼拝堂内
作者    : ミケランジェロ・ボナローティ(Michelangelo Buonarroti 1475-1564)

メディチ家の菩提寺である、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内メディチ家礼拝堂に設置されているジュリアーノ・メディチ(Giuliano de Medici)の墓碑彫刻の一部です。

ローマでユリウス2世霊廟の制作に取り組んでいたミケランジェロは、新教皇となったメディチ家出身のレオ10世からの命令で、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂の装飾に取り掛かります。聖堂ファサード、聖堂内のラウレンツィアーナ図書館に続いて取り掛かったのが、新聖具室内(メディチ家礼拝堂とも呼ばれます)の彫刻群です(旧聖具室はブルネレスキが担当)。当初の計画では、メディチ家4名の霊廟が制作される予定でしたが、実際に作られたのはヌムール公ジュリアーノ・メディチと、ウルビーノ公ロレンツォ・メディチの墓碑のみです。着座した形の2人の全身像の前には、「夜」「昼」「夕暮」「曙」を象徴する彫像が2体ずつ配置されています。また2人の彫像の視線の先にある壁面には、ミケランジェロ作の聖母子像があり、その両脇にはメディチ家の守護聖人である聖コスマス(ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソリ作)と聖ダミアン(ラファエロ・ダ・モンテルーポ作)の彫像があります。

ジュリアーノ・メディチ(ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ)は、メディチ家最盛期を創出したロレンツォ・イル・マニフィコの三男です。長兄はフィレンツェの支配者となったロレンツォでしたが、1494年フランス王シャルル8世によってフィレンツェが征服されたため、ジュリアーノも含めたメディチ家は一時追放されてしまいます。ヴェネツィアに亡命したジュリアーノでしたが、1513年にはスペイン主導の神聖同盟の力によってフィレンツェの権力の座に返り咲きます。1516年までの4年間フィレンツェの支配者となったジュリアーノは、教皇レオ10世として即位した次兄のジョヴァンニから教皇軍総司令官にも任命されます。その後はフランス王フランソワ1世の叔母と結婚したことでヌムール公(フランス北部 パリ周辺のイル・ド・フランス地域を支配)の地位を授かりました。ジュリアーノは軍務・政務よりも、文人・芸術家との交わりを重視した華やかな文化人、宮廷人で、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ルドヴィーコ・アリオストなどのパトロンでした。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、ジュリアーノからの依頼で制作されたとする説もあります。

ジュリアーノ・メディチ像 アップ
(写真はWikimedia commonsより)


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