ゲーム条例をめぐって、本気でゲームに向き合う人たちの物語
読み始める前は、気が重かった。
政治家の不正の話なんて、好き好んで読むものではない。
ましてやそれが、自分の愛するゲームという芸術様式に泥を塗り(彼らは「一概に全てを否定するものではない」という言い回しを繰り返し用いているが、裏を返すと「具体的に何が悪いのか考えもせず、大雑把に全体を否定している」わけだ)、しかもその条例はすでに施行され、曲がりなりにも公権力のお墨付きを得ているなどということは、わざわざ思い出したいことではない。
既に悪名高い香川県の「ネット・ゲーム依存症対策条例」、所謂ゲーム条例に関する一連の社会の動き、パブリックコメントの(ほとんど明らかに不正だが、手続き上は罪に問われていない)問題、その背後にある事情を、現地の報道記者として長年追い続けてきた山下洋平さんがまとめた書籍「ルポ ゲーム条例 なぜゲームが狙われるのか」がこのたび発売された。
私はゲームクリエイターの一人として、本書籍にインタビューを掲載いただいている(なんと、「ぷよぷよ」の生みの親として知られる米光一成さんと並んで)。
私なんぞがゲーム業界の代表ヅラしてそんなインタビューを受けて良いのかと、葛藤がなかったわけではないが、当時から条例の問題点を整理して指摘するnoteを複数投稿して、ゲーム事業者の一人として長文のパブリックコメントを送っており、また立場的にもフリーランスで会社に迷惑をかけるといった心配がないということで、引き受けさせていただいた。
書くからには、誰が読んでも「ゲーム業界の人は論理的に冷静に考えて、この問題に向き合ってるんだな」と感じていただけるように、口頭ではなくテキストベースのやりとりでインタビューに答えさせていただいた。実際に、そのように受け止められており、胸をなでおろしたところだ。
論旨としては上記の当時書いた内容の圧縮版+最新の知見も前提にした増補版というところなので、とくに私のインタビューのために読んでほしいというわけではない。
この本がすごいのは、私以外にも、非常に多面的にゲームに関わっている人たちの生の声を取材して、それぞれが真剣にゲームに向き合った結果を映し出しており、対比的に、ゲーム条例がいかにゲームと向き合っていないのかを浮き彫りにさせている点だ。本書で紹介された数々の印象深いインタビューの中から、いくつかをかいつまんで引用させていただく。
DSを2つに折った母親の話
まずは、ゲーム時間が長い息子のユウタさんと対立し、「2つに折りました。ニンテンドーDSを。目の前でやりましたから」と告白する母親のカヨさん(いずれも仮名)。
条例では、ゲームの時間を1日60分までとするようなルールづくりを行う責務を親が一義的に負う、ということになっている。では、それを遵守しようとした時に、その60分から溢れ出てしまう彼らの苦しみに、向き合うことができる余裕が、親や、社会や、学校などに、しっかりとあるのだろうか。
オフラインキャンプで楽しみを見つける話
ゲーム条例で定められた予算によって、偏見を助長するようなポスターが作られるなど負の側面もあるのだが、2022年度には「オフラインキャンプ」が新たに実施され、これについては現場の方の理解もあり、意義ある取り組みになっていると感じた。
このキャンプには、保護者が無理やり連れてくるのではなく、子供らが自らの意思で参加したのが大部分であり、定員を大幅に超える応募があったそうだ。
初日の講演会では10代の頃にゲーム中心の生活を行ってきた「当事者」でもあり、不登校やひきこもりの相談や支援を行う一般社団法人の代表の方が自らの体験を共有。不登校になったことでゲームをやり続けるようになり、「極端な話、死んでしまいたいという気持ちも浮かび上がったりする中で、ゲームしてる時は一瞬忘れられるんですよね」と参加者に寄り添う。
そして実際にキャンプで何をやるのかというと、チームに分かれて「薪タワーづくり」で競うなど、(私に言わせれば)ゲームそのものなのだ。ビデオゲームと違うのは、キャンプの運営者や場所・機会・友達、そうしたものを沢山用意して(しっかりとリソースをかけて)新たな体験を与えているところで、非効率かもしれないが良質な体験(ゲーム!)であると感じた。
ビデオゲームは、プログラムで動くため、こうした人間に寄り添う相手を「自動化」したものだと考えることもできる。ただし、プログラムだけに相手をしてもらうのは、あくまで「他に迷惑をかけないでやり過ごす」ための安価な手段であるに過ぎない。こうしてコストをかけてその人と向き合えるのであれば、オフラインで友達と遊ぶというゲームが勝る点は大きい。
レッテル貼りがより状況を悪化させる話
「香川が、ゲームを取り戻す」をキャッチコピーに、地元商店街も巻き込んでeスポーツイベント「Sanuki X Game」が開催された際の様子も本書では取材し紹介されている。eスポーツ対戦のみならず、自作ゲームの展示や非電源ゲームの取り組みなど街全体がゲームの多様性を魅せる中、ゲーム依存の専門医(先程のキャンプを運営もしていた海野院長)と当事者によるトークショーが開かれた。そこでは回復中の当事者である方が、次のように生きづらさを語った。
近い経験をした人なら、この気持ちはよくわかるのではないだろうか。本書には、他にも似た事例がいくつか掲載されている。社会に馴染めない→ゲームに逃避する→その状態を「ゲームのせい」にされる→余計にゲームにのめり込むしか無くなる、関係が悪化する……
翻って、ゲーム条例は、こうした偏見を助長し、家族に管理の一義的責任を負わせるだけで、現場の方々が既に感じておられるような「ゲームは悪者ではない」というスタートラインから、遠ざけるような効果を生んでいないだろうか。
ゲームと幸せに向き合うために、香川県の当事者は真剣に活動している
ゲームは、やりたくてやっているうちは良いものだ。しかし、やりたくないのに、本当は他のことでも社会に受け入れられたり皆と関わりたいのに、ゲームに逃げるしかなくて、もう得られるものも多くないのに続けてしまうのは、ゲーマーにとっても辛いことだ。それは、まずゲームが悪いというわけではなく、ゲーム以外の社会が彼・彼女をどう扱っているか、ということへの応答でしかない。そんな彼らにあえて、ゲームは目安を決めて辞める「べきものだ」と社会が決めつけるようなレッテルを貼ることが、状況をむしろ悪化させてしまってはいないだろうか。
香川県では条例をきっかけに、それのカウンターとなるような活動がいくつか生まれているようだ。Sanuki X Gameを企画した渡辺さんは、希望をもってこう語っていた。
この本を読み終えて、香川県の中の方々に希望を持つことができた。
正直に言って、私はあの後から「香川県」という言葉を聞いたり見たりすること自体に耐え難い苦痛を感じるようになってしまっていた。もちろん、香川県の住民の方は何も悪くないのだが、申し訳ないけど、それほどに香川県議会が踏み込んだ尊厳の領域というものは深いものだった。
しかし、戦争の後の焼け野原から新たな文化が芽吹くかのごとく、ゲームクリエイターを目指す人やeスポーツイベントを企画する人やゲームについて真剣に考え議論する場が生まれてきた。条例ができた時は「これで香川からはエンジニアもクリエイターも生まれない不毛の地になる」といった辛辣な意見も目にしたが、強制力もなく説得力もない条例に従う人は少なく、むしろ彼らの対抗心に火を付けた側面もある。
念を押して言いたいのは、たとえ「結果的に」そうした県民の努力によって新たな価値が創出されたとしても、それをして「条例そのもの」が良かったなどと言うつもりは毛頭無いということだ。それは真剣にゲームに向き合った人達が評価されるべきというだけで、きっかけさえ与えたら何をしても良いのであれば、それは名画に食べ物を投げつけるようなテロリズムを肯定するに等しい。
テロに屈せずに行動を起こす人たちの物語を読んで、私の中でずっと「名前も見たくないあの県」扱いだったものが、ようやく「香川県」の人たち、と心の中で思っても辛く無くなった。そのことに感謝したい。
ゲーム条例とか香川県のことなんて思い出したくもない、という人にこそ、読んでほしい一冊だった。
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