劇団ケッペキ

京都大学公認の演劇サークルです。 次回公演:2024年度新入生歓迎公演『↗︎ヤジルシ』 …

劇団ケッペキ

京都大学公認の演劇サークルです。 次回公演:2024年度新入生歓迎公演『↗︎ヤジルシ』 4/27(土)~4/29(月・祝) @THEATRE E9 KYOTO

最近の記事

稽古場対談

自己紹介 渡邉 お2人自己紹介をお願いします。 南方 はい。劇団ケッペキ新3回生、今回のヤジルシの稽古では役者をさせていただいております、南方大幸と申します。よろしくお願いします。 板垣 劇団ケッペキ新2回生の役者をさせていただいております板垣大稀と申します。何卒よろしくお願いします。 渡邉 よろしくお願いします。 南方 そういえば2人ともだいきなんだよね。 板垣 そうですね。 南方 今思い出したわ。あだ名がどっちも名前じゃないから全然見落とされがちなんだけど。名

    • 指差せば一斉に咲く

      桜を見上げていると肌に透ける血管を見ているような心地がする。枝の先まで血色良く咲いた花が脈打つように微かに揺れる。風に呼応してさわぐ群衆のように花弁が散っていく。鼓動が近い。全力疾走した後に身体の中に心臓の波打つのを聞くと恐ろしくなる。血液を全身に巡らせて生命を駆動する器官の正体がこの脆弱なリズムであることはあまりにも不安定だ。生と死を隔てる薄膜に思わず触れてしまった時、その手触りは焦げ付くほどリアルである。生が生成される場はそれゆえ最も死に近い。生とは維持ではなく恒常的な生

      • 『風景と声』 地図から表象する—試作エッセイ

        迷子になってしまった。注目しようとする何かと自分との結ばれた位置関係。そのとりわけ漠然とした何かを、言葉によって描写しようとした時に、自分が何を捉えようとしていたのか分からなくなる事も少なくない。それまでの座標と広がっている対象との距離を見失っては、本当に帰れなくなってしまう事もある。そもそもあらゆる当てはまり感(ドンピシャ感)というのはマッピングの蓄積から発生する。その時出来ていた(場合によっては無意識な)地図によって示される表現との関係によって現れるものだ。 言葉では表せ

        • 💐

          自分以外も意思を持って生きているという事実は未だに信じ難いものとしてあります。母がいつもは使わない「あたし」という一人称をこぼした時、私たちはスーパーのお肉売り場にいて、明かりはオレンジ色でした。私は生まれる前から父と母の娘であり、姉の妹でしたが、父と母は以前私の父と母ではなかったし、姉もかつては姉ではありませんでした。自分の知らない思い出と、自分のいないホームビデオは、生暖かい血縁越しのフィクションとして存在しています。 下宿が始まってから、自分の言葉が自分一人に帰属する

          在るもの

          人はどうしても(完全には)不自由ではいられない。もしくは、人は自由を失うことができない。僕は少なくとも演劇や映画を見るときには無意識のうちにこのことを前提として見てしまっている、あるいは見るようになってしまったことに最近気づいた。 なぜこのように感じるのかはわからないが、おそらく虚構の中で生きる身体には普段は見えにくくなっている自由が表出しやすいからではないかと考えている。基本的に演劇や映画において、役者は演じる際に日常と比べて一定の不自由を強いられている。その程度は作品や演

          一基

           頭が空っぽの落語家の、その洞に出囃子が鳴る。とたん彼は軽い調子で高座へと歩み、下半身を座布団に張る。彼はまったく動かない。声も出ない。今は観客も揃ってひそやかで、何を囁き合うことすらしない。出囃子が止み、無音のときを幾許かして、舞台は覚めなければならなくなる。すると弟子が袖からゆっくりと現れ、演目を知らせに上がる。この使いは何に堪えかねたわけでもなく、ただ唯一、静穏な空気に自由であるから告げに出たのだ。耳打ちのあと初めての沈黙があり、達人の間をもって第一声が発される。迫真の