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山際淳司「背番号94」を読んで人生のままならなさを想う

こんにちは。今年の夏の高校野球は仙台育英の初優勝で幕を閉じましたね。僕が一番熱心に高校野球を見ていたのは小学生~中学生くらいのときなんですけど、同時期に読んで、今も毎年夏が近づくと思いだす話があります。「江夏の21球」で有名なスポーツライター、故山際淳司氏の代表作『スローカーブを、もう一球』の中に収められている、「背番号94」という話です。

山際淳司氏は物語の書き出しが非常に巧みで、まるでその場にいるかのような臨場感を与えてくれるものもあれば、同じ『スローカーブを、もう一球』の中にある「たった一人のオリンピック」のように、ノスタルジックで印象的な書き出しもあります。今回紹介する「背番号94」は、こんな風に始まります。

≪やあ!キミがクロダ君か≫
例によって少しばかりかん高い声でそういうと、長嶋監督は学生服を着て直立している少年に歩み寄ってきた。
クロダ君は、こういう場合、どういう顔をしていいかわからずに、ただなんとなくという態で佇んでいた。

「背番号94」

この物語の主人公である「クロダ君」は昭和50年の夏まで千葉県立下総農業高校のチームでエースで四番でした。とはいえ同校は野球名門校というわけでもなく、過去に甲子園に出場したこともありません。そんなところになぜ「ミスタージャイアンツ」長嶋茂雄監督がやってきたのかといえば、この「クロダ」君が目当てなわけです。公立高校のエースの元にやってきたミスタージャイアンツ。普通に物語を期待するのであれば、これはシンデレラストーリーというやつでしょう。野球名門校でもないチームのピッチャーが突如「ミスタージャイアンツ」長嶋監督の目に止めり、プロ野球の世界に飛び込んでいく…。まるで往年の名作『巨人の星』のようです。これが漫画であれば、紆余曲折を経てプロの世界で活躍していくストーリーが描かれるでしょう。

しかし、めでたくジャイアンツと契約し、野球少年の夢である「プロ野球選手」になったクロダ君の5年後の独白はこうです。

……あれからもう五年になるね。
野球?続けてるよ。うん、続けてますよ。ぼくなんか、毎日、登板してるものね。プロの世界に何人ピッチャーがいるかしらないけどね、毎日のように登板するピッチャーなんてそうたくさんはいないんだよ、ハハッ。……自分で笑っちゃいけないな。
毎日、登板、ただし、試合が始まる前にシャワーを浴びて着替えてしまうピッチャーなんだ。

「背番号94」

クロダはもう「プロ野球選手」ではありませんでした。彼の仕事は「バッティングピッチャー」=打者の打撃練習のための球を投げる投手。当然、選手として登録されていません。クロダはプロの世界で生き残ることができなかったのです。結局、「打たれること」が仕事のバッティングピッチャーとして生活しています(もちろん2022年時点では、彼は退団しています。一応ウィキペディアに記事はあるのですが、今何をされているのかはわかりません)。

彼にはプロ野球選手として生きていくためのモノが足りていませんでした。それは野球選手としての実力でしょうか?技術でしょうか?運に恵まれなかったのでしょうか?もちろんそうなのでしょうが、彼の述懐を読んでみると、どうもそれらだけではなかったようです。彼に決定的に足りなかったモノ、それは一言でいえば「精神力」です。つまり、「泥水を啜ってでもこの世界で這い上がってやるぞ」という気持ちが足りなかったのです。 

クロダが高校野球でもっとも注目されたのは、3年の夏の県予選でした。下総農業は県下でも特に強豪でもなく、ピッチャーは彼一人。連投を続け、県ベスト4にまで勝ち進みます。あと2つ勝てば甲子園。クロダたちにとっては、高校時代のピークになる試合かもしれなかったわけです。

ところが…。なんと彼は、準々決勝が終わったその日に友人の家で酒を飲んでしまったのです。そして深酒後の最悪のコンディションのまま準決勝のマウンドに立ったクロダは打ち込まれ、結局勝つことはできませんでした。

彼は、例えば周りが楽しく飲んでいるときに「明日試合だから」「次の日の練習に影響があるから」といった理由で席を立つことができないタイプの人間でした。プロに入ってから、たとえ同じチームの人間であっても蹴落とすべきライバルであることを、頭ではわかっていても気持ちがついていかない。自分では「やろう」と思ったとしても、「時々、フッとバカバカしくなってくるんですよ。格好よくないしね。」と、どこか冷めてしまう。

結局のところ、シラケた人間から敗れていくんでね、この世界は……

「背番号94」

当時の巨人の二軍には多くの若手がおり、アピールする場が少なかったこともありました。例えば西本聖、定岡正二など、有望な若手が多かったことも事実です。そしてクロダは、そういった場で自らをアピールすることにシャイでありすぎたのかもしれません。

キャッチャーにふだんから、何かとサービスするなんてことが、ぼくにはできないんですね。登板チャンスが少なすぎる、もっとアピールすればいいじゃないかって、よく野手の人たちからいわれましたけどね、そんなミットモナイことできるかって、いつも思っていましたからね

「背番号94」

そして、彼は現実に飲み込まれていきました。

ある夏の午後、彼は死んだように眠りこんでいた。じっとりと汗をかいていた。目をさました。壁に貼った山口百恵のピンアップがかすかに吹き込んでくる風にハタハタと揺れていた。どこからか歌謡曲がきこえてきた。
ほんの数年前の夏にはたしかに自分のものだった夢や希望は、夏という季節をとおりすぎるたびに、その暑さに負けて溶けてしまったように思えた。クロダは、夢が溶けていくときにも汗が流れるものだということを知った。

「背番号94」

夏の多摩川の観客は少ない。応援団もいない。両軍のベンチから時折り野次が飛ぶ程度である。
クロダは、むかつくような思いにとらわれた。マウンドに立つと、誰もかれもが干からびているように見えた。暑さにやる気をなくしている奴がいた。いつまでたってもここから逃げ出せない自分にうんざりしている男がいた。練習のあとのビールと、ピンナップ・ガール相手のマスターベーションだけで、いやな夏を乗り越えようとしている奴もいるに違いない。
カッと熱いものがクロダの中をかけのぼってきてもおかしくはない。対象が明確に見えない怒り。

「背番号94」

わずか3年でプロ野球の世界から敗れたクロダには、「背番号94」が待っていました。彼にはプロ野球選手になるほどの素質がありました。後に大成した西本聖のように、ドラフト外で入団しながらもガムシャラに努力し、一流の選手になっていった人もいることを考えると、彼は「甘かった」のであり、結局のところ、勝負の世界には向いていなかった人なのでしょう。

僕は、クロダのことを責めるつもりも、その資格もありません。なんといっても彼にはプロ野球選手になる才能があったのですから。巡り合わせや周囲の環境によっては、彼はそこそこ活躍ができる可能性があったのかもしれないのですから、結果だけを見て「自分に甘い奴はダメだろ」と言いたいわけでもなく、何か教訓めいたモノを彼の話から引っ張り出したいわけでもありません。

「あのとき、もっとこうしていればよかったんじゃないか」「受験の時、もっと頑張っていれば…」「そうすれば、今自分はこうだったんじゃないか」って思いたくなる時、あると思うんですよ。そんなときにふっとこの話を思い出すんですよね、クロダの言葉が浮かんでくるんです。

プロ野球の世界は、たしかに勝負の世界ですからね。勝つ人間、敗れる人間、それぞれ出てきますよ。ぼくは、負けた側の人間だけど、しかし、負けた敗れたといって生きてても、しょうがないでしょ。負けたことだけがぼくの人生のすべてじゃないんですから……

「背番号94」

ところで、冒頭でわざわざ高校時代のクロダに直接会いに来て声をかけていた長嶋茂雄監督は、その後クロダに何かアドバイスを送ったり、励ましの言葉をかけていたのでしょうか?山際淳司氏は最後にこう書いています。「最後に一言、付け加えれば、ジャイアンツに入って以来、クロダは長嶋監督と話をする機会がついになかった」と。

まあ、人生そんなもんかもしれませんねっていう。

それでは。

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