公武結合王権論を検証する (2): 三人の王

人は金持ちとなり、地位を築くと最後には勲章を欲しがるものと言われています。名誉です。それは洋の東西を問いません。

例えば征夷大将軍という称号は元来、古代王朝固有のものであり、軍事貴族に与えられるものでした。しかし王朝の支配から自立した戦士である武士も又、それらに強いあこがれを持っていた。その称号は武家の称号ではないにも関わらず、それでも武家の棟梁は征夷大将軍を名乗ることに執着しました。古代王は義満や信長や秀吉にそれぞれ征夷大将軍、右大臣、関白の官位を与えています。いずれの位も古代王朝における高位の位でありました。

それは中世西欧でも同じでした。地中海世界を支配していた西ローマ帝国は5世紀に崩壊しました。その結果、西欧人は古代ローマの支配から解放されます、そして10世紀のころ、西欧には中世フランスや中世ドイツなどいくつもの封建王国が建ち始めていました。つまり西欧は王国の集合体と転じていたのです。それ故、ローマ皇帝という帝国の称号は有名無実なものになっていました、しかし西欧諸国の王たちはそれを手に入れようと必死でした。結局、この称号は中世ドイツ王が数世紀に渡り掌握し続けます。

さらに西ローマ帝国の滅亡から1000年以上も経た19世紀、フランス革命によって四分五裂に陥っていたフランスを見事に束ねたナポレオンも又、ローマ皇帝の称号をのぞんでいた。その結果、彼は国王ナポレオンではなく、皇帝ナポレオンを名乗りました。

鎌倉時代以降、武家社会において征夷大将軍という古代王朝の官位は形式的なものでしかありません。というのは古代王から征夷大将軍に任じられたからといって義満が東北の地に進み、豪族たちの反乱を鎮めようとするわけではありません。あるいは右大臣の称号を贈られたからといって信長が古代王の下で日本の政治を担当することでもありません。義満も信長もそのことは十分に理解していたうえでそれらを受けていたのです。

 称号と実態とは全く乖離している。それはお飾りでしかない。義満たちは勲章をもらったからと言って古代王に王権を分与したりしません。王権は武家のみが持つのです。勲章の授与と王権とは別物です。つまり明らかなことですが、この官位授与は形式的なものであり、古代王が武家を従者として従え、仕事を命じることではないのです。官位叙任のための官位叙任です。当時の古代王には武家に何かを命じる力はありません。

鎌倉時代から室町時代まで幕府や地頭や守護は古代王朝の権力や王家や公家の荘園領地の強奪、横領を絶え間なく蹴り返していました。その結果、室町時代、王家は独自の兵も独自の財もすでに失い、丸裸の状態となっていました。ですから武家と共同で日本を統治することもあるいは武家と対立し、独自に日本を支配することも夢のまた夢でした。戦国時代の古代王が哀れな姿になり果てていたのは当然です。

古代王にとってみれば武家の棟梁に高位の称号を贈ることは自己保身でした。官位叙任は古代王が武家の棟梁、もしくは有力武士と緊密な関係を結び、彼を味方につけるため、少なくとも敵に回さない、そして形式的には武家を従え、しかし実質的には武家の保護の下、王朝が生き延びようと願う行為でした。それは日本支配とは全く違う。つまり官位叙任は王権の行使とは言えません。

一方、武家にとっても勲章は欲しいものです。特に秀吉のような自己評価に自信の無い者にとっては勲章(関白)が彼の日本支配をより正当化するための手段となりました。しかし信長のような自信過剰の者は勲章に目もくれない。お飾りは不要です。

支配力(兵力と財力)を失った古代王にとって望みはただ一つ、生き残ること、それだけです。そしてそれは16世紀の日本において(そして17世紀のイギリスにおいて)奇跡的に可能となった。王権の無力化は直ちに王の抹殺と王家の滅亡へと繋がらず、幸運なことに王は王位を保障され、世襲を認められたのです。しかし同時に、その代償として王は王権を放棄し、武家の統治に介入せず、国家の象徴と化すのです。この取引は言わば公武の手打ちであり、穏便な王権の引継ぎ(王権簒奪)でした。

武家は古代王を殺害せず、王朝を解体しませんでした。むしろ義満や信長や秀吉は古代王に仕える姿勢を示し、古代王にきれいな服を贈り、住まいを改装し、十分な生活費を与えました。それらはすべて彼らの戦略です。すなわち王権の引継ぎを穏便に進め、王権を手中に収め、彼らの日本支配を正当化し、そして権力基盤を強化するためです。

公家は勿論のこと、当時の武士や寺僧や農民も1000年以上に渡る王朝支配に慣れ親しみ、古代王家をあたかも空気のような、大切なものと認めていました。それは目には見えない、漠然とした古代王家の社会的な影響力です。そんな古代王を殺害した場合、彼の日本支配に悪影響が出かねません。そしてそれは日本人の多くを敵に回すことになるかもしれない。従って義満や信長は古代王を殺害せず、安全策を採ったのです。この古代王の持つ力は何と呼んだらよいのでしょうか。ここではとりあえず<古代王の伝統力>と名付けておきます。

20世紀半ば、7年間、日本はアメリカの占領下にありました。その時、勝者アメリカは敗戦国の天皇を戦争犯罪人として抹殺しませんでした。彼らは占領政策のために計算をしたのです、天皇を殺害することと天皇を生き延びさせることの二つを比較した。そして天皇を生き延びさせることに決めました。その理由は二つあります。一つは日本人が深く慕う天皇を殺害することは日本人を改めて敵に回すことになります、そうなれば占領政策は思い通りに進みません。そしてもう一つは天皇を軍国主義の払拭や民主体制の推進という占領政策のために利用することです。それは基本的に義満や信長の採った王朝対策と同じでした。

そして勝者アメリカは天皇の生存を認めることと引き換えに天皇の象徴化を要求しました。それが条件です。王権の絶対剥奪です。そして先ずは天皇の人間宣言が行われたのです。

しかしこの古代王の伝統力は王権とは無縁です。それは次元が違い、王権と並ぶほど強力なものではありません。伝統力や官位叙任などはある程度、精神的に王権を支え、王権の行使を<補強>するものかもしれません。しかしそれは王権を<補完>するほど重要なものでもなく、決定的なものでもありません。

というのは例えば勝者アメリカや義満が古代王を殺害し、国民の多くを敵に回したとしてもそれでも彼らは日本支配を貫徹できたかもしれないからです。王権は伝統力の支えがなくとも成立する、そしてその時、古代王の伝統力は霧散するのです。

アメリカや義満、そして信長は安全策を採りました。国民を敵に回さず、古代王を殺害せず残し、しかしその代償として古代王を象徴化したのです。この安全策は不穏で緊張感の漲る世にあっては優れた選択でありました。その結果、義満たちの日本支配は安定し、当時の公家や武士や寺僧や農民も<安堵>したのです。

さて秀吉は古代王から王権を絶対的に剥奪します。それはかつて義満や信長が認めていた古代王のわずかばかりの権力さえ認めず、取り上げることでした。すなわち秀吉は古代王朝の土地制度、税制度、身分制などの支配体制を一掃し、そして武家独自の制度や組織を全国に布きました。例えば石高制、太閤検地、兵農分離などです。その時、古代王の象徴化は確立したのです。

その点、義満や信長の王朝対策は緩いものでありました。しかし秀吉はそれを一気に締め上げた。王権強奪は王権簒奪へとその極点に達したのです。それは歴史の必然でした。頼朝から始まった公武の歴史的な対立は泰時、義満、信長へと連続し、最終的に秀吉において武家の圧勝として終了したのです。そしてこの時から武家の棟梁は日本支配の実質王権を掌握すると同時に、象徴王権を有する古代王をも<掌握>することになりました。

それでは徳川はどうであったのでしょう。例えば、18世紀の頃のことです。当時、徳川の支配は緻密で、強力で盤石なものになっていました。古代王は徳川の当主が変わるたびに、征夷大将軍の称号を贈りました。官位叙任はまるであいさつのようであり、習慣と化していた。官位叙任は象徴王の恣意ではなく、慣習に転じていたのです。官位は紙のように軽いものとなっていました。

しかも江戸時代の日本人の多くは古代王との付き合いがほとんど無く、その存在自体がすっかり忘れ去られていた。彼らにとって日本の王は徳川であり、あるいは彼らの大名です。それ故、漠然とした古代王の伝統力はすっかり失せていた。従って徳川は王朝を支えることや古代王に仕えることにも現実的な意味を見いだせません。古代王の存在は限りなく、軽く、透明なものに化していました。

日本は中世においても現代においても二人の王を抱えています。中世では象徴王(古代王) と中世王の二人でした。そして現代では象徴王と現代王(国民あるいは憲法)です。今日、このような二重の王位はイギリスや西欧のいくつかの国に存在するだけです。希少です。しかし日本とそんな西欧の国々との大きな違いは日本の象徴王が古代王(専制君主)であり、一方西欧諸国の象徴王は中世王(封建君主)である、ということです。現代日本の象徴王は天皇(古代王の末裔)であり、そして現代西欧においての象徴王は、例えばイギリスではエリザベス女王(中世王の末裔)です。

そして古代象徴王と中世王とが数世紀に渡り共存した国は恐らく世界で日本のみです。それは世界史の中で特筆されるべきことです。古代王家は王権を喪失してもなお王位を持ち続けてきましたが、それはまさに古代王家が象徴化したからこそ、です。すなわち古代王は中世王の厚い保護下に置かれていたからです。それは王家が世界で最も長く続いている理由です。

西欧には古代王の象徴化は生じなかった。(この理由は別稿で説明します。)一方、日本においては中世王(慶喜)の象徴化が起きませんでした。それには日本的な歴史理由があります。江戸時代末期、西欧列強の日本進出に際し、京都に蟄居していた古代王は突然、象徴から現実の王へと変貌します。これは一種の古代帰りでした。横紙破りの古代王朝の復活です。

このことによって歴史の舞台は大きく回転しました。古代王は西国の雄藩の軍事力に支えられ、錦の御旗を掲げます。そんな古代王朝の復活宣言を目の前にして慶喜は古代王と対立するよりも古代王に仕えることを選択しました。古代王に首を垂れて彼の軍事貴族と化したのです。そうであれば彼は古代王に王権を返却せざるを得ません。王政復古です。

かつて義満、信長、秀吉は古代王を保護下に置きました、しかし明治維新の革命家たちは慶喜を保護下に置かなかった。それは慶喜(江戸幕府)は今も健在であり、戦力、財力を有し、革命家たちに対し、十分に対立的な存在であったからです。零落していた古代王とは違います。

結局、革命家たちは慶喜(江戸幕府)を危険視し、それ故慶喜を追い立て、保護せず、江戸から追放しました。中世支配の一掃です。彼は象徴王として遇されることはありませんでした。日本は中世象徴王を認めなかった。

もっともこの古代帰りは古代王の意志というよりも革命家たちの謀略であり、徳川から王権を剥奪する巧みな手段であった。従って当然とはいえ、古代王に真の王権は戻らず、古代王朝は出現しません。そして古代王は事実上、再び象徴王に戻るのです。一方、謀(はかりごと)に成功した革命家たちは王権を掌握し、明治維新を断行し、日本の現代化を推し進めたのです。

明治維新は一瞬の古代復活劇でした。それは日本史上、二度目の王権簒奪です。義満、信長、秀吉の行った王権簒奪は段階的で、ゆるゆると進んだものでしたが、今回の王権簒奪は短期間に、しかも劇的におこなわれました。現代化革命はその名の通り、日本を古代国へと戻すのではなく、逆に現代国へと押し上げていきました。その点、革命家たちの謀略は象徴化された古代王を持った日本特有の歴史のうえで、編み出された巧みな戦略であったといえます。

さて最後になりますが、王権というものは結合せず、しかし簒奪するもの、簒奪されるもの、ということが明らかになりました。王権とはまさに死活的なものであり、二者が妥協して持ち合うという好意的というか、あるいは楽観的というかそんな中途半端な行為は発生しません。結合王権というものは幻です。

尚、日本史は世界史の中でも極めて特異な歴史ですが、それでも一つの国に三人の王(古代象徴王、中世象徴王、現代王=国民)が打ち並ぶという、世界の奇観は出現しませんでした。

(歴史書<中世化革命>から引用  Amazonから出版)

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