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知的・行動障害のある子をもつ親の施設入所をめぐる思い(竹口宏樹)|季刊福祉労働174号|特集1「脱施設」と言うけれど:進まない地域移行を考える

【『福祉労働』編集部より】津久井やまゆり園事件から、2023年7月26日で7年目を迎えます。19名の尊い命が失われたにもかかわらず、現在も入所施設で暮らす人が12万人を超える日本。昨夏には障害者権利委員会から「施設収容の廃止」が強く勧告され、「脱施設」は喫緊の課題です。

「津久井やまゆり園は私たちがやっとたどり着いたところです」。これは、同園の家族会会長の言葉です。自ら望んで施設に入る人はいません。ですが、苦しみながら施設に入れざるを得なかった家族がいます。どんなに重い障害があっても地域で共に暮らす社会を目指すならば、家族たちを追い込んだものを見つめ、想いを聞き届けなければならないと考えます。この記事が議論のきっかけになれば幸いです。

『季刊福祉労働』174号

はじめに

私の長男には、重度の知的障害と難治てんかん、その他にもたくさんの困難があります。

私は医療機器の企業で働きながら、長男のケアを模索し続けてきました。しかし、二〇二〇年一月、長男は自宅での生活に限界を迎え、夫婦ともに疲弊し、家族全員がギリギリの状態になりました。長男は、施設入所となりました。その後、私は脱サラし、法人を設立しました。現在は、ヘルパー事業、居住支援事業、成年後見事業を中心に、障害のある人や高齢者の支援を行っています。

「脱施設」という言葉について、親としてはさまざまな思い、葛藤が駆けめぐります。そこで、今回は、長男のこれまでの暮らしと施設入所の経緯、そして親の孤立についてお伝えしたいと思います。親が施設を頼らざるを得ない状況をまず知ってもらったうえで、「地域移行」という具体的な目標に向けて検討してもらえれば幸いです。

長男の障害と、きょうだいについて

長男は、今年の八月で二〇歳を迎えます。生後すぐに、指定難病である「結節性硬化症」と診断されました。病気にともなった最重度の難治てんかん、全身に良性腫瘍、右麻痺があり、右手はほとんど使えません。知的障害も最重度の判定で、二語文ほどの発話しかできません。性格は人懐こく、人との関わりが大好きですが、結節性硬化症の精神症状のためか、衝動的に気持ちが荒れ、自傷・他害行為に至ることがしばしばあります。

私にとって初めての子どもでしたので、難病があっても、てんかん発作があっても、右手右足が動きにくくても、言葉がほとんど話せなくても、とにかく愛おしくて、いろいろなところに連れて行き、刺激を与え、喜びそうなことはなんでもしました。

たくさんの経験をさせるようにしましたが、右麻痺であること、重度知的障害であることなどから、興味をもって集中できるものが見つけられませんでした。また、食事やおやつにもこだわりがないことが、支援の難しさを増長させました。録画した『仮面ライダー』などを何度も見ている間にも常に誰かを呼び続け、応えないと荒れます。自宅内には常に緊張感がありました。

結節性硬化症の精神症状については、未だはっきりと解明されていません。長男は、「自閉スペクトラム症」と診断されましたが、自閉スペクトラム症の対処ではうまくいかないことが多かったです。家族会や結節性硬化症学会にも足繁く通い、最新情報を入手しましたが、衝動的な自傷・他害行為や摂食障害は改善されませんでした。

「親なきあと」を案じ、きょうだいももうけました。「神輿は担ぎ手が多いほうが軽くなる」と思ったからです。「きょうだい児」の苦悩を知った今であれば、間違った考えであることがわかります。それでも、親として子どもに平等に接するべきだと思い、同じように愛情を注ぎました。

長男は、常に誰か(特に父である私)を独占していないと荒れる傾向にあったため、下の子どもたちとの交流は、長男の就寝中しかできないことも多くありました。朝五時から娘と二人でジョギングをしたこともあります。学校や放課後等デイサービスのない年末年始には、私は長男と数日間寝室で過ごさなければならず、下の子どもたちと初詣に行くこともできませんでした。

就学前~中学校時代に受けていたサービスや相談事業

結節性硬化症の治療のために、月一回、小児神経科の主治医にてんかんや精神症状について相談にのってもらっていました。就学前には、母子通所の療育にも通っていましたが、役に立ったとは言い難いです。

京都市発達障害者支援センター「かがやき」に二年半かけて療育の予約をし、通所しましたが、自閉症としての療育方法を数回提示されたのみで、長男には役に立ちませんでした。児童相談所や児童発達支援センターについては、知識を得る機会がなく、存在を知りませんでした。「障害者地域生活支援センター」(基幹相談支援センター)には不定期に相談していましたが、健常な家族がいる場合は優先順位が下がってしまい、「何かあったらまた言ってください」と、経過観察になることばかりでした。

特別支援学校に入学した後は、福祉の支援・サービスをまったく知らず、利用もしていませんでした。多くの子どもと一緒に過ごさせようと、地域の学童クラブに懇願し、他の健常児と一緒に放課後を過ごしました。中学のときに、放課後等デイサービスを知ることになり、利用しました。移動支援については、「障害者地域生活支援センター」に問い合わせても、「事業所はあるが、どこも受けてくれない」と言われ、居宅介護については、「家族同居の場合は利用できない」と言われたことで、どうせ福祉サービスは使えないのだろうと思ってしまいました。知っていなければ使えない、言わないと教えてくれないという姿勢です。

このころの私は、仕事と長男の世話で二四時間が終わり、将来どころか、今ですら不安でしかなかったです。長男が学校などに行っていない時間帯以外は、就寝時を含めて、常に神経を尖らせ長男に意識を集中させないといけない緊張状態が続いていました。平日、仕事から帰宅する際や、休日に長男が放課後等デイサービスから帰宅する三〇分前、私は朝までの長い長男との戦いに備えて、深呼吸をしないといけませんでした。

高校時代、夫婦で疲弊。そして、施設入所へ

幼少期から、長男にとっての安全基地は自宅のソファでした。しかし、中学に入学し、思春期を迎えたころから長男は徐々に荒れていきました。ソファで横になっていても、左手で顔を隠し、自分が辛い状況にあることをアピールするようになり、左手首を中心として、自分を嚙む自傷行動が出てきました。動画を見るときの音さえ嫌がっていましたが、とくに、下の子どもたちの泣き声、怒っている声は、長男にとっては苦痛であり、自宅がゆっくり過ごすところではなくなっていたのだと思います。自宅でうまく過ごせない時間が増え、放課後等デイサービスを土日祝日に入れたり、移動支援を入れたりし、自宅以外にいる時間を増やしました。

しかし状況はどんどん悪化し、放課後等デイサービスから帰宅しても家に入らずにうずくまり、自宅にようやく入っても、次は玄関で何時間もうずくまり、目に映るあらゆるものを投げるなどの行動障害が強くなりました。車椅子も投げつけてきました。入浴、食事も拒否です。深夜になって疲れ果てたところで、着替えもできずに眠りにつきます。寝室でも一人で過ごしたがるようになり、カメラを導入しました。様子を見て、てんかん発作や支援が必要なときに対応するためです。他者から見れば、「家庭内で監視カメラを付け、食事を与えず、入浴もさせず、着替えもさせないネグレクト」と指摘されかねない状況でした。

朝起こすと嚙みつきや蹴りがあり、食事、服薬もできないため、寝ている間に、そっと着替えをさせる毎日。学校への送迎バス乗り場までなんとかバギーで連れて行くも、途中で靴を脱ぎ、投げ捨てたりし、大荒れです。もちろん、その間にも父への暴力があり、おんぶのときに後ろから顔面へのパンチ、嚙みつき、蹴りもありました。てんかん薬をどうしても飲まないといけないので、大好きだった消防署の署員さんや学校の送迎バスの乗務員さんに応援されながら、なんとか服薬させていました。


長男の入浴時。嚙まれて腕が血だらけに


玄関で何時間もうずくまる長男

二〇二〇年一月二十三日の夕方、長男が帰宅し、いつもと同じように玄関外、玄関で何時間も過ごしました。着替え、入浴、食事も何もできないまま、寝室までなんとか連れて行こうとするのですが、とうとう寝室にも入れなくなり、寒さの厳しいなか、二階の廊下で自傷を繰り返し、朝を迎えました。

なんとか学校に送り出し、妻に「児童相談所に行こうか」と打ち明けました。家の中に長男が安心していられる場所がなくなったと思ったからです。妻から「うん」との返事がありました。

児童相談所では、傾聴された後、「そうですか。大変ですね。とりあえず様子を見ましょう」と帰されそうになりました。「様子を見る余裕はありません」と伝えると、「じゃあ、お父さんはどうしたいのですか?」と。「ショートステイなど、いろいろ方法はないんですか?」と尋ねると、「ショート利用希望ですか?」と言われ、「いや、そういうことではなく、いろいろ選択肢を提示してください。ここは、選択肢を提示し、児童を守るところじゃないんですか?」と伝えました。その後、白川学園(京都市内にある障害児入所施設)に問い合わせてもらえることになりました。

しかし、夕方近くになっても児童相談所からは返事がありません。長男の帰宅時間が刻一刻と近づいてきます。再度、児童相談所に催促を入れたところ、やっと白川学園に問い合わせがされたようで、「ご両親が今からすぐ白川学園に連れてくるなら、一時保護が可能です」との返事がもらえたため、学校に迎えに行き、家に帰る間もなく白川学園に連れて行きました。一時保護を数週間経た後、措置入所となりました。高等部卒業後も措置入所でした。

一八歳を迎えると、本来は退所時期なのですが、特例措置があったため、児童として二年の延長を許可されました。その後、成人枠(障害者入所施設)の空きが出たため、現在も白川学園に入所しています。長男は、白川学園でも自傷や食事拒否をしていますが、体重は一〇kg増えました。人手不足から職員にかまってもらえず、気を引くために便・尿失禁をしている様子です。

施設入所について、親として思うこと

白川学園という入所施設がなければ、家族の何人かはすでに他界していたかもしれません。入所を安易に選んだわけではなく、それしか方法がなかったのです。土日に帰ってくるグループホームはもちろん、数日のショートステイで事態が好転するとは思えませんでしたし、家族と本人にとって明るい未来が見えないなかでは、どうにもならなかったと思います。
 施設入所を否定する人は、家族に愛されながらも施設に入らざるを得なかった人の支援を、期限なしでやってみてください。そうすれば必要性は必ずわかるでしょう。

施設入所は必要だと思います。「脱施設」という標語のもと施設を追い出すのではなく、入所者が地域で生活できる基盤を整え、定期的にチャレンジでき、何度もやり直せる環境整備が必要だと思います。その結果、施設から出られることが正解なのではないでしょうか。

子どものこれからと、「脱施設」「地域移行」という言葉について思うこと

最近、長男は地域での暮らしを目指して、月に数時間の外出からチャレンジしています。受け入れてくれそうな事業所も見つけ、このままスムーズに進むことを願っています。しかし、いざ施設を出たあとでうまくいかなくなってしまったとき、戻る場所(施設)がなかったら……と思うと、その一歩を踏み出すことに葛藤を覚えてしまいます。

施設をなくすことが先ではありません。『北風と太陽』と同じで、施設から出られる、出たくなる取り組みが必要だと思います。また、「地域移行」を政策で議論されている方々には、「地域」とは、「慣れ親しんだ地域」のことであり、慣れ親しんでいない、よくわからない場所ではないことをしっかり理解してほしいです。

私は、長男には、施設を出て、家族以外の支援者に見守られながら日々の生活を楽しんでほしいと思っています。家族は、長男の「生活の支援者」ではなく、「白黒の生活をカラーにする彩(いろどり)」の存在となるように機能させたいと思っています。

そのためには、施設入所者が地域生活に何度もチャレンジできる報酬体系、受け皿、地域生活にたとえ失敗したとしても、もう一度以前の施設に戻れる仕組みが必要だと思います。

親支援の必要性、いま悩んでいる親たちへ伝えたいこと

親への支援は必要です。正しい知識、広い知識の共有。親が限界を感じる前に、周囲にいる支援者が外部へ適切につなぐことが大切です。また、親同士のつながりは、子どものどの年代においても希薄です。特に、つながりが必要な親ほど孤立していると感じます。

いま悩んでいる親御さんへ。無理をしたくなくても、無理をしておられるでしょう。将来どころか、今夜をどう乗り切るかに苦慮されている方もおられるでしょう。

そんなときは、その状況から逃げてもらっていいと思います。使えるものはなんでも使って逃げてください。そして、なんとか逃げられたら、同じような状況の人が助かる仕組みを考えたり、行動したりする仲間になってください。

支援者のみなさんへ

保護者には、選択肢を提示してください。「〇〇しないでください」よりも「〇〇してみてはどうでしょう。また、その後の様子を教えてください」と伝えてほしいです。

虐待事案に見えても、親が全力で関わってきた結果かもしれません。そこから救い出してください。「助けて!」を伝えにきた背景をよく考えてください。「様子を見ましょう」を言わないでください。様子を見てどうしようもなくなったので、相談しているのです。

 たけぐち・ひろき………昭和四十九年生まれ。大学卒業後に医療機器の会社に就職し早朝から夜遅くまでのサラリーマン。二〇一九年に脱サラし、一般社団法人my whereabouts設立(代表理事)。ヘルパー事業、居住支援事業、成年後見事業を中心に困っている人の支援を行う。社会福祉士、介護福祉士も法人設立後、再度大学に入り直し取得。

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