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遅めに取った夏季休暇で帰省した折に、東京に帰るの経由地でソロキャンプを決行することにした。呆れた顔をする妻は先に東京に帰して、昨晩はキャンプギアの確認にひとり余念がなかった。

東京にはソロキャンプしてから帰るため1日帰りを早める旨を母に伝えると、「あそこの山では最近熊が出たから、気をつけな。昔とは違うのだから、危ないことをせんことやて」と言う。大丈夫だよ、と言いつつ、自分もまさかねと内心少しビビっている。

あまり母の話を取り合わないのは、世の中の多くの母親と息子がそうであるように、僕が幼い頃から母はいつもこんな風に言って聞かせてきたからだ。

生来の心配性というか、常に世の中に生きていくのにペシミティック悲観的というか、あらゆる事象にいわゆる「畏れ」のような感情を抱いていた。大方、その心配は外れることの方が多いが、残念ながらたまに致命的に当たることがある。

「あんたは弱い子やで、将来、社会に出たらそんなんやったら、とてもやってけん」事実、社会人1年目に僕はパワハラ上司にアクシデンタルにかちあい、適応障害のような何かの底なし沼のさなかにいた。

「なんかさ、もう仕事つらいんやわ。できたら、てか、すぐにでもやめたいんやけど」
「あんたはすぐに何でもやめるやめる、いうでいかん。本当に辛くてもうダメだと思った時まではやってみ。そう思う時がきたら、そうしたらいいけど。今がその時なんか?」

その後なんやかんやあって、その上司の配置換えがあって、僕はあやうく難を逃れて、何とか生き延びることができた。うちの会社ではそんなことは日常茶飯事で、これも半ば交通事故に近い性質のようなものだと思う。だが、一難去ってまた一難、僕はそれから先もあらゆる危機に遭遇することになる。

その時に母が抱いていた世間に対する根源的な「畏れ」の感情を肌身に感じることになった。母の口癖は「あれ、こえーさ」怖い怖い、この世は一寸先は闇。母の実の父である祖父を戦争で亡くし、夫である僕の父もアルコール依存症で死ぬ最後まで生にもがき苦しんできた。

母が朝早く起きて、特大のおにぎりを数個こさえてくれた。アラフォー男は母特製のおにぎりを頬張り、暗い山の林の中でこの人の世の中に蔓延る根源的な「畏れ」へと思いを馳せる。そして、あと何回、この母のおにぎりを食べられるのだろうか、ということについても。どちらも僕にとっては重要な問題だった。

母からメールがきている。「無事にテントは張れたか。雨は降ってないか?熊には気をつけるように。東京行きのバスに乗ったら連絡くれ」
「ありがとう、おにぎり美味しかったよ」と返しておいた。(妻は「あんみり飲み過ぎないようにね」と一言)いつものように、チビチビと酒を飲みながらDJ krushのMIXを聴きながら、感情の波が嗚咽のように込み上がる。

ソロキャンプに来るたびに、決して自分が一人で息だけしているのではないことを実感する。大自然の中で、妻や母、キャンプ場のスタッフ、お隣さんのキャンプ客、職場の同僚、今は会ってない親友と友達の境目の人たち。

そうだ、いや、この世界の人すべてだ。それによって、僕はこの夜の闇(と熊)の恐怖に根源的な「畏れ」を抱きつつも、ギリギリのところで生かされていることに気付く。

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