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1076_バッテリー

「もしもし、三ノ瀬か?」
「ああ。実は今、3高前のグラウンドの前で1人で飲んでんだよね」
「この時間に?」
「来れる?」
「ああ、わかったよ、ちょっと待ってな、10分くらいでいくから」
そそくさと上着を取りにリビングを出ていく様子を見て、妻が呆れた顔をした。

「ちょっと行ってくるわ」
「こんな時間に?わかった、三ノ瀬さんでしょ」
「そうだよ」
「あなた、あの人の誘いだったら、ホイホイついていくのよね。まったく都合のいい女みたい」
「ハハ」

妻のご機嫌を取りつつ、苦笑した。付き合っている男から都合のいい女扱いされている女が、「今から会えるか」と、彼氏に呼び出された途端に、必死になって会いに行くようだと揶揄したいんだろう。別に間違っているわけではない。俺は、あいつの誘いは断らないことにしている。別に、それでいいと思っているから。

少し小走りでグラウンドに向かったら、夜間照明の脇の暗がりのベンチの椅子に、誰かが酒を片手に座っているのが見えた。三ノ瀬だった。俺の存在に気づくと、見ろよ、という表情で、グラウンドで一人練習している学生の姿に視線を向けた。

「あいつ、なかなかいい線いってるんだよ」
「おまえが教えてるのか?」
「いや、うちの教え子じゃないけど。俺が教えてやれば、だいぶ伸びそうなんだけど、惜しいな」

三ノ瀬がチューハイの缶を手渡して、焼鳥のパックを隣に寄せて、俺を招き寄せた。俺は無言で缶を受け取ると、ベンチの隣に座る。俺と三ノ瀬は高校の野球部でバッテリーを組んでいた。三ノ瀬がピッチャーで俺がキャッチャー。この3高のグラウンドは、3年間2人で練習に必死になって明け暮れた思い出の場所だ。

「おふくろさん、調子どうなんだ」
「今日はショートステイで家にいないから、こうやって久々に羽を伸ばせるんだよ」
「そんな夜に、ここで俺と飲もうってことかい」
「十分だろ」

三ノ瀬と俺は高校卒業後、違う大学を出てそれぞれの仕事に励み、家庭を持った。三ノ瀬は地域の野球クラブでコーチをしていたりしているが、俺はしばらく仕事も忙しくて、野球からは遠ざかっていた。

だが、2年ほど前に、認知症の進んだ三ノ瀬の母親を介護するために、仕事を辞めた。仕事を辞める前も、こうやって三ノ瀬と一緒に3高前のグラウンドで酒を飲みながら、いろいろと話を聞いたんだ。

「なんか、おふくろって、普段はボケーっとしてるんだけど、たまに意識が戻るっていうか、すごいシャンとして、それで昔のことを鮮明にさーっと話し出すんだよね。逆によくそんなこと覚えてるな、って俺がびっくりするくらい」
「そうなんだ」

「そしたら、たまにお前の話も出てくるんだよ。まだアンタはあの子と野球組んでやってるのかい?って。俺とお前がバッテリー組んで必死こいて練習してた姿を眺めていたことが、お袋にとっちゃいい思い出らしい」
「そうか。いっつも試合に応援しに来てくれてたもんな」
野球ばっかしてたからな、俺たちと言って三ノ瀬が笑う。

三ノ瀬のお袋さんが俺のために作ってくれた弁当の卵焼きとかの味を思い出す。とても優しい人だった。幼い頃に母親を早くに亡くした俺にとって、それはとても心残る味だった。

お袋さんにとって俺と三ノ瀬の野球をしていた姿が、記憶の底から不意に蘇る思い出となっている。確かに、そうあってくれたら、三ノ瀬と野球をしていた甲斐があるってもんだ。

「困ったことあったら言ってくれ。なんでもいい、力になるから」
「女房役に頼むようなことはなにもねーよ。ただ」
「ただ?」
「こうやって、ジジイになっても、こうやって3高前でお前と酒を飲みたいって。それだけさ」
「そうだな」

そういって、夜間照明が切れても、必死に素振りを繰り返している少年の姿を二人で眺めていた。夜半を超えて、月の光が人影の少ないグラウンドを照らしている。

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