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184_Lone「Reality Testing」

「おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
また彼に挨拶された。外でもいつもよく通る声で、その声に私はどうしてもビクッとしてしまう。マンションの隣の部屋に住んでいる彼は、確か小学校の先生をしているのだという。子供にもよく聞こえるように聞き取りやすい挨拶を心がけているんだろう。彼からの挨拶には、どうしても毎回リアクションに困ってしまう。なにぶんと私の背が小さいから、自分の担任する小学校の生徒と同じような目線で私のことを見ているのかもしれない。

ただ、お隣さんとしてマンションの廊下で挨拶をするだけの関係だ。それ以上でもそれ以下でもない。そこから会話するまでには至らないのだが、お互いの顔を認識できているということにおいて私は満足している節がある。まともな人が住んでいるということだけで十分だ。世の中、お隣同士であっても挨拶するのも憚られる間柄というものがどうしても存在するからだ。

私は大学入学のために上京してから、これまでも何度か引っ越しを経験をしたが、住むところ住むところお隣さんのトラブルは多かった。まずはじめて入ったアパートから、つまづいたからだ。

私は、その時、はじめてのひとり暮らしでウキウキする気持ちもあったが、同時に富山の実家の暮らしが恋しくなってしまい、若干のホームシックにかかっていた。しかも、それに輪をかけて私を憂鬱にさせたのが、当時住んでいたお隣さんの存在だった。最初、お菓子を持って入居のご挨拶をと思い何度かベルを鳴らすのだが、一向に出てこない。

仕方ないのでそのままにしておくと、それから2週間くらい経ったある日、学校から終わって帰ってくると、急に部屋の前でその人と出くわした。30代前後の女性だったと思う。虚な顔で部屋の前に立っていた。前々からどうにもお隣の様子が窺い知れないとは思っていたが、いったいこんな夜中に自分の部屋の前で何をしているのだろうか。

「あ。あの、すいません」
「…はい?」
「隣に越してきた清水です、あ、あのはじめまして」
「…どうも」
女は一瞬私の方に目を向けて、再びドアの方向に視線を移した。私は気持ち悪くなって、早く自分の部屋の中に逃げ込んでしまいたかった。ドアを開けて自分の部屋に入り、すぐに鍵をかけた。もしかしたら、彼女は自分の部屋の鍵をどこかに落として途方に暮れていたかもしれない。それはそれで困っているのだから、どうにかしてあげたほうがよかったのだろうか。でもあの声と顔つきは、どうにも私の助けを望むような感触ではなかったような。彼女が発する言いようのない気色悪さに私はどうしていいかわからず、ベッドの上で、気分紛れに携帯を眺めるくらいしかできなかった。

ピンポーン。
ビクッ。
部屋のチャイムが鳴った。私は心臓が止まるかと思った。この状況で、誰が私の部屋を鳴らすのか考えれば容易に想像がつく。私はガタガタ震えながら、ベッドの上のその場にとどまるか、ドアを開けるか選択を迫られていた。さっき私の存在を彼女に認識されているんだ、居留守ということも今更できない。
ピンポーン。
催促するように再度、チャイムが響く。嫌だ、怖い。安いアパートだからモニターフォンもない。私は私を奮い立たせて、ドアの前に向かった。ドアスコープを覗くと案の定、あのお隣さんの女性が虚の目をして立っている。私は恐怖に慄いた。でも開けざるを得ない。怖々しながらゆっくりとドアを開ける。彼女は長い髪の間から覗く目で、私の顔をじっくり見ながら口を開いた。

「…あの」
「は、はい、どうかされたんですか?」
「どうしても、部屋に入れなくて」
「部屋に?」
「…はい」
やはり鍵でもなくしたのだろうか。といっても、鍵の云々などはお隣の私がどうにかできる話ではないのだが。早く鍵屋さんでも呼んでもらうかしかないだろう。ドギマギしながら、相手の様子を伺っていると、途端に彼女が少し景色ばんだ顔になった。

「入れないですよ、部屋に。汚れているんです!」
彼女は急に声のトーンをあげたので、私は余計に恐怖に駆られた。「汚れている」というのは一体どういうことなんだろう。彼女の言うそれは、日常生活で出てくる「部屋が汚れている」というようなニュアンスの言葉には思えない。しかも自分の部屋のことを指してそう言っているということが余計に意味不明だった。私の理解の範疇を超えている。
「な、なんなんですか」
「だから、あなたなんとしかしてくれないの!この部屋にいるものを追い払ってちょうだい!」
「え、え、あ、はい、なんとかします。ちょっと待っててください」
私は咄嗟にそう言って、なんとか隙を見てドアを閉めた。無論、なんとかしようなどとするつもりはない。すぐにドアの鍵を閉めて、逃げるように部屋のベッドの上に転がり込んだ。ブルブル震えながら、実家の母親に電話をかける。夜の8時過ぎだから、父と妹と晩御飯だとか食べたところだろうか。どうか、なんとか出てほしい。

ピンポーン。ピンポーン。チャイムは鳴り続けている。おそらくあの女が鳴らしているのだ。

「もしもし、お母さん」
「あ、あらどうしたね、こんな時間に」
「お母さん、あの、あのね」
聞き慣れた母の声を聞いて安心したのか、私はじんわりと目に涙が滲んできた。
「なんか、今、お隣の人がチャイムを鳴らしてて」
「あら、まあ、一体どうしたの」
私の尋常ならざる様子を察してか、母は不安な幼児をなだめるような感じで、要領のえない私の話をじっくりと聞いた。母は聞き上手な方だ。私は母に状況を話すたびに少しばかり自分でも状況を飲み込めてきた。何回かチャイムが鳴った後、急に静かになった。諦めたのだろうか、と、一瞬私が油断した後に、ドアをドンドンと叩く音がして、ドアノブがガチャガチャと乱暴に動かされた。

私は泣きそうになって、母にずっと携帯越しに助けを求めていた。母は警察を呼びなさいと言ったので、私が一旦携帯を切って110番をかけようとした時に、再び急に静かになった。そしてそれから、本当に何もなかった。私はその夜、一睡もできなかった。

それからというもの、私は部屋を出る時は毎回恐る恐るゆっくりとドアを開けて、隣の部屋の前にに女が立っていないことを確認してから、そろりそろりと外に出る。部屋に帰ってくる時も一緒だ。階段を上がってきてから、まず部屋の前の状況を伺う。そして音を立てないよう歩きドアを開け、逃げ込むように部屋に入る。そんなことばかり繰り返していた。チャイムを散々鳴らされたあと、鍵を閉め忘れていたため、女に部屋の中に侵入されるという悪夢も何度か見た。

そんなことを1ヶ月程度繰り返していたのだが、どうしても我慢できなくなって、親に理由を話して、引っ越し先を探していた時だ。ある日、学校からアパートに帰ってくると、パトカーが数台止まっており、人だかりができている。私はどうにもならない胸騒ぎがした。大家さんが彼女の部屋の前で私の姿を見つけた。

「首くくっちゃったらしいの」
初老程度の大家さんが本当に困ったという顔をして、私に話してくれた。私は絶句した。死後24時間以上は経っていたらしいとのこと。私が今朝も恐る恐る部屋から出た時には、すでに彼女はこの部屋で息絶えていたのだろうか。

「なんかの宗教を入ってたらしいの、ここの人」
彼女が死んだ原因かどうかはわからないが、あの時、私に対して向けた言葉もそれに関係したものだったのかもしれない。私は一刻も早くこの部屋から出ていかなければならないと決意した。

それから次に越したアパートのお隣さんも、私が少し携帯で友達で話した程度で、「電話の声がうるさい」と怒鳴り込んできた。その次のアパートでは、逆に夜中に訳のわからないアニソンを大音量で流し続ける男性が隣に住んでいて、不眠症になったりした。

本当にお隣さんという存在には苦労しっぱなしだった。まともな人が隣に住んでいるということは、私にとって非常に得難い幸福なのだ。それが簡単に享受し得ないものであるということを私は知っている。だから、あなたもお隣さんという存在にはいつも注意深くしておいた方がいい。いつ、インターフォンを鳴らされるかわからないのだから。


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