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まなざしの共有は、子どもにとってどうなのかを絶えず考える教師の学びが支えている

  赤ちゃんが母親のまなざしの奥にある自分の存在、つまり母親にとっての自分の意味、自分と母親との関係を直観的につかんでいるという事実から、「まなざし」という言葉は生まれている。
 
 子どもたちは、教師からの応答を求めて学校にやってくる。子どもの拒否は、この教師は、自分の味方になってくれるかどうかと、子どもが教師を試す行為でもある。だから、子どもたちにとっては自分をさらけ出す挑戦でもある。この教師はわかってくれる、受けとめてくれるという子どもの安心感は、子どもの内面の闘いに参加しなければ生まれてこないと指摘されてきた。「まなざし」とは、子どもへの苦悩への共感であり、もう一人の自分への励ましであり、まなざしは、子どもとの関係をつくりだす教師の行為とされてきたのである。
 
 そのさい、まなざしは、心がけではないという点が重要である。「子どもが立ち歩いて困る」という教師が、実はうろうろしながら説明や発問をする。「子どもが私語をして困る」という教師が、子どもの作業や話し合いの最中に勝手にしゃべり出す。坂本泰造は、教卓の後ろに30センチほどの円を書き、そこから発問をしっかりと子どもたちに投げかけるようにしたという。マカレンコは、「ここへいらっしゃい」ということを20の色合いをつけて言えたとき、子どもとの関係に脅えなくなったと言う。子どもの荒れが問題にされるとき、それはその子の生育史に解消されてはならない。そうではなく、同時代の社会の荒廃が問われているのであり、教師の内面の荒れが試されてくるのである。(吉本均編著『新・教授学のすすめ—「まなざし」で、身に語りかける』明治図書、1989年、参照)
 たとえば、授業を5分前に終了するように構成してみるという手立てがある。45分間の授業を40分間で終えるようにするように組み立てる。時間に追われるように授業を進めていると、ついつい「いいかげんにしなさい!」とか「そんなこと知らない、自分でやりない」などと声を荒げてしまうからである。時間的余裕が「子どもなのだからしかたない。大目に見てあげよう」といった気持ちを生み出してくる。授業が重苦しくなり、苛立ちばかりが残ってしまう日常を転換する方法が、ここにはある。
 
 ところで、息子が、新型コロナウィルスに感染した。朝、熱があるのに気づき、かかりつけの病院に連絡したが、16:00にしか予約がとれなかった。診察をして陽性とわかっても、解熱剤しかもらえない。40度もの熱を出し、全身が熱いのだが、汗が出ない。息子が目を覚ましたとき、両親が揃っていることを確認すると、ほほをゆっくりと動かし、もうほほしか動かせない弱弱しさを伴って、うれしそうな笑みを向けてくる。120cmに満たない全身はぐったりしたまま、身体がなんとか闘っている。なにもしてやれないのに、ただそばにいることが息子に安心感をもたらしていることが伝わってきて、いたたまれなくなる。
 珍しく、夫婦二人そろっての看病だったので、妻と私のケアには、決定的な違いがあることに気付いた。妻は、息子が起きる前に、そばにいる。のどが渇いたそぶりを息子が見せる前に、何が飲みたいのかを聴いている。そういえば、息子が生まれたばかりのころも、息子が泣き出す前に、「おなかがすいたのかな」とか「気持ち悪いか」とか言いながら、母乳を与えたり、おむつをかえたりしていた。今でも、思ったより宿題を終わらせるのに時間がかかったとき、子どもが発するため息とともに「終わったね」と目を合わせている。子どもと時間と身体を共有していないとできない親の行為である。私は、息子にのどが渇いたそぶりがないと水を用意できない。私は、子どもにサインがないと対応ができない。妻は、助けを求められるから何かをしてあげるというより、子どもがいつでも働きかけえる関係を保障している。子どもがヘルプを出せるように、何もしないでそばにいるのである。私は、息子に呼びかけられてしか動けない世話であり、何かをしてもらうかどうかの決定権が子どもにはない。妻は子どもが他者に呼びかけることそのものを保障するケアであり、何を助けてもらうかの決定権が子どもにある。子どもの権利条約にある「意見表明権」は、言葉になった意見をはっきりと口にすることではなく、言葉にならない世界や子どもの見方を聴きとられる権利である。
 
 鷲田清一さんは、『死なないでいる理由』(鷲田清一、小学館、2002)のなかで、「時間」というものが一方から他方へと贈られるという添い寝が持つ親密さのイメージを受けて、無条件に人の世話をうけること、言うことを聞いたからとか、お利口さんにしていたからとか、そういった理由ではなしに、「じぶんがここにいる」という、ただそれだけの理由だけで世話をしてもらった経験が身体に刻まれているかどうかの重要性を指摘している。こぼしたミルクを何気なく拭ってもらった、便で汚れた肛門を丁寧に拭いてもらった、脇の下や指の間を丹念に洗ってもらった……。そういう「存在の世話」を、いかなる条件や留保もつけずにしてもらったという経験の記憶が、将来、じぶんがどれほど他人を憎むことになろうとも、最後のぎりぎりのところで人への信頼を失わせないでくれるという。
 伊藤亜紗さんは、『手の倫理』(伊藤亜紗、講談社、2020年)で、「人の身体にふれる」経験を手がかりに、「まなざし」を介した他者関係とは異なる「手」を介した他者関係のあり方を探求している。つねに健常者が先回りして障害者に伝えていたら、それは相手の挑戦の芽を摘むことになってしまう。伝達モードは「安全」と相性がいいが、それでは「信頼」は育まれないことを指摘している。そもそも「ふれる」という出来事が成立するためには、ふれる人のふれられる人に対する、そしてふれられる人のふれる人に対する「信頼」が必要となる。ふれる側は、相手がどういうリアクションを起こすか分からないまま主導権を握り、ふれられる側は、相手がどういうふれ方をするのか分らないまま主導権を渡すというのである。「あずけることによって得られる」という共鳴的関係は、身体というメディアならではの特徴であることを指摘しているのである。
 鷲田さんは、子どもに関係性が成立してくるおとなから子どもへのまなざしという行為を問題にしているが、伊藤さんは、健常者と障害者が対等な関係となるような、健常者から障害者へのまなざしが成立する関係性を問題にしている。
 
 妻は、授業の中でこれまで発言していない子どもがはじめて発言しようとするとき、子どもが手をあげる前に目が行くという。子どもが手を挙げる前の内面の葛藤に気付くのである。なぜ、そういうことができるようになったのかを尋ねると、授業研究で子どもにとってはどうなのかを絶えず問われてきたからだという。あるいは、ある教師に、「放課後、教室で子どもがいない机の一つひとつを見ながら、今日この子はどのような発言をしていたか、今日自分はこの子に何をしてやれたかを考えてみなさい」と教えられたという。すると、この子はどんな発言をしていたかを、皆目思い出せない子どもが一人や二人は必ずいてしまう。だから、これまで見過ごしていたその子ならではの良さや健気さ、弱さや悲しみといったものが感じられてくる。そして、教師である自分自身は何が問題か、どこをどうすればよいのかも見えてくるというのだ。
 
 こうした教師としての生き方を深めていく学びが、「まなざしの共有」にはある。教育の方法は、教師がガムシャラに努力することで身につくものではない。まなざしの共有は、教師のこころがけを示した標語ではなく、子どもとの関係の理解をたえず深めるしくみと学びを持つことによって、教師の行為がつくりかえられていく実践のキーワードである。

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