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友達っぽいだけで友達じゃない場合。

スマホを持っている人ならば、ネットに繋がるSNS的なものを全くやってないという人は皆無に近いと思います。

単純に連絡できないしね。

ちなみに、InstagramやXなんかは繋がっている人のことは「フォロワー」と表示されますが、LINEやTikTok、Facebookなんかだと「友達」と表示されます。

「友達」

「友達」

「友達」


いや、友達じゃねえしw

私はもはや完全におじさんになり、「老人」の領域に片足を突っ込み始めている年齢になるので若者事情は知りませんが、今も昔も若者というのは一般的に他者と繋がりたい欲求が強いものなので、SNS的なものの繋がりややり取り「いいね」の数、それこそ「友達」の数を気にしたりもしてしまうでしょう。

でもね、そんなもので繋がっている人は友達でもなんでもないんですよね。

もちろん、友達の定義なんてのは人それぞれなので、その人が「いや、友達だし!」って言うのなら否定はしませんが、私個人の考え方と定義においては、Facebookで繋がっているだけの「友達」なんて友達でもなんでもないし、知り合いですらない場合すらあります。

「家族」はさ、インスタで繋がっているかどうか?で定義されないでしょ?

「恋人」も、TikTokで繋がっているかどうかなんて関係ない。

そういうことじゃない。

「友達」もさ、SNSで繋がっているかどうかとか、数が何人いるかとか全く関係ないし「俺達って友達だよな!」って確認し合うものでもない。


友達ってさ、本当に辛いときや悲しい時、困ったことがあった時に電話して、会って、その人に話を聞いてもらいたいと思えるような人であろうし、相手からもそう思ってもらえる関係じゃない?

何の用事がなくても会って飲みに行って楽しく2、3時間過ごせて「また、飲み行くべ!じゃあな!」って別れられる人だし、めったに会えない状況にあってたまたま会えるとしたら、5分顔を見るために1時間かけてその場所まで行きたいと普通に思えるような人。

「心で繋がれる関係性としての友達」ってさ、同じクラスにいたから自然に出来るっていうようなものじゃないと思うんだよね。

もちろん、そういう出会いによって終生の友になる人もいるだろうけど、それってきっかけはクラスメイトだったとしても、その後に様々な経験や過程を経てこその「終生の友」でしょ?

「恋」は1秒で落ちることはできるけど、「友情」は1秒で成立することはない。

長い時間、多くの共通体験・経験をし、何度も繰り返される会話や、ふと見せる素顔、そういうものを互いに感知していって関係を醸成し、それによって相手への「信頼感」というものがあるラインを超えた時に、「あいつは信頼出来るよな。いいやつだ」って自然に思えて、「友達?うん。まあ、あいつは友達だよな」って思えるようになるんじゃないかねえ。

ま、上に書いたように、友達の定義なんて人それぞれだから、インスタで繋がっている人はみんな友達って人もいるだろうし、昨日飲み屋で会った人と友達になれる人もいるだろうけど、俺は友達はそんなものではないと思っている。

友達は自然に出来るものではないのだ。

一緒にいたから友達になるものでもない。

それは恋人と同じように、互いの信頼がなくなったら関係が不安定になり、なくなることも当たり前にあるような脆いものでもあり、その信頼を持つために多くの時間と労力をかけて相手の心の奥の向こうの方まで入っていく大変な作業でもあるのだ。


日々何時間も使って「いいね」をして、友達感を持ってる気がした気になるのならば、そんなことはやめてサシで飲みに行って誰にもしたことのない話を心を開いてしてみることだ。

自分が右手を差し伸べるから、相手も右手を差し伸べてくれて握手が出来るし、自分が両手を広げて近づくから、相手も両手を広げて近づいて抱擁することが出来る。

スマホでタップして「いいね」することに、相手に近づくコミュニケートをする度胸も覚悟も勇気も労力も必要ない。

そんなもんで友達になれるわけがない。

持てるのは「俺達って繋がってるよね。ともだちだよね❤」っていう儚い妄想だけだ。

妄想が覚めることはないと信じられるのならば、それでもいいかもしれんけどね。

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