地味な彼女をプロデュース(4)『六条御息所 源氏がたり 上』:素人が源氏物語を読む~花散里~

源氏物語で一、二を争う地味キャラ=花散里ちゃんを各種アレンジで読み比べる遊びです。

◆前回の振り返り

前回は、弘徽殿女御コードで描かれた『十二単を着た悪魔』でした。強面キャラの弘徽殿女御がキリッと賢いクールな女性のように描かれていたのが印象的な作品でした。そのなかで花散里への言及は、あっさりしたものではありますが、否定的ではないものでした。

花散里のこと、クッソつまんない地味な根性なし女であるように語るとか、あるいは完全スルーするというケースも少なくないなかで、否定的ではない評価は意外なものでした。

◆六条御息所の持つサイキックの説得力

今回は、話題になったのでご存知の方も多いのではないでしょうか、林真理子先生の『六条御息所 源氏がたり 上』です。六条御息所の生霊飛ばせるサイキックなところをデフォルメして、時空を行き来できたり未来予測ができたりする霊として源氏と彼をめぐる女たちを語ってゆくのです。その設定がシックリ来るのは、六条御息所が一番でしょう。

弘徽殿女御は呪いの力を使えそうだけど、基本は権力の圧を使ってく感じですし。権力あるひとに「夜道にゃ気を付けるんだな」と言われたら、よくある一般論と同じ内容でも、言われた側が過剰に怖がっちゃう、みたいな。彼女はある意味健全なので霊としては動けなさそう。

権力もサイキックも、どちらもイマジナリーな力と言えそうですけど、よりリアリティが無いのはサイキックのほうです。

って、書いたら思いついたのは、大臣の娘で御息所なのに、父も夫も亡きあとの彼女は、貴族の身分社会のなかでは権勢としての影響力は欠片も持たないような存在なのに、なぜか風雅な存在のように世間に認められていそうなところが、霊とかサイキックと似通ってます。実体はあやふやなのに存在感あるものとして受け入れられている。

そうでもないのかなあ。あるいは、話題のお化け屋敷に行くような感じで若い男たちが集まってたのかなあ。まさか。

◆六条御息所が語る花散里

『六条御息所 源氏がたり 上』を開きます。

目次。それぞれの章には「桐壺の更衣」、「空蝉の君」など、一人ひとりの女性の名前がついています。なんと「源典侍」もあるのです。これは期待できそうです。上巻は「明石の君」まで。結論から言うと少なくとも上巻には「花散里」の名のついた章はありませんでした。言及されるとしたら「明石の君」の前の筈です。その「明石の君」の前は「出京」「須摩」なので、まあ「出京」でしょうね。

はい、「出京」に花散里についての言及がありました。こちらも否定的では無いですね。人生の障害とみなされない女には否定するほどの価値も無いということでもあるのでしょう。

麗景殿女御の妹ということなので、花散里と六条御息所には共通点があります。今は亡き大臣の娘たち。

桐壺帝の時代に光源氏と花散里は内裏でほのかな関係があったということから、六条御息所と時期が重なっていた可能性はあります。それでも、本編でも六条御息所が花散里に対して何か、という描写は無いですし、こちらのアレンジでも否定的なことは書かれない。これは私の勝手な仮説ですけど、今の大臣たちになる前の代の大臣たちの娘として、同じ敵に破れたという親近感のようなものが想定されてたりするんですかねえ。

あと、こちらのアレンジでは身分社会が、ちゃんと意識されています。身分をわきまえない女性について否定的に語られること、身分のある女性については肯定的に語られる配慮から、そのように読みました。御息所は身分の坂道を下ってきて、下がってく段階でヘマしなかったから名高さは残ってて、つまりそれぞれの段階を上手くやってきたから、余計に身分相応か否かに敏感になるんだろうなあ。

金がうなるほどある、稼ぎ手である男が順調に安泰に貴族社会で力を増していける、そんな家の娘だけがワガママを言える、と語られます。葵上や朧月夜がそうでしょう。六条御息所の原家族の構成がよくわかりませんが、父大臣が生きていた時代と現体制になってからとでは抑えなくてはいけないことがの数が桁違いだったことでしょう。

さて、六条御息所に語られる花散里はこんな感じです。以下ネタバレかもしれません。ネタバレを避けたい方は、残念ですがここで離脱をオススメします。いつかどこかで、お会いしましょう。






美しさや才気は無い、と断言されます。これは紫上と比較しているのでしょう。しかし「あいづちを打つのがとてもお上手」で「小さくやさしい声」なのだとか。こういうのは、雨夜の品定めの場面で「よく思えてしまう」と男たちが語らっていた女性像と重なります。エロスな世界に行かなくても、しみじみ語らうだけで癒してくれるような存在。

なんですかね、地味女だからって癒し系とは限らないものですけど、花散里に関しては地味だが癒される存在として読まれることが結構ありそうなんですよね。

紫上との対比だとしたら、彼女もまた美女なのに可愛らしい範囲で品よく嫉妬するだけなんだから子犬みたいにキャンキャン怒って見せたところで癒し系のようなもので、対比として弱い。末摘花のような引き立て役というポジションとも違う。

対比じゃない場合、ズラシというかグラデーションのような配置もよくありますけど、紫上が素晴らしすぎて、二人は「ちょっとだけ違う」って感じでもない。こう、マンダラみたいに意図的に配置されてるように読みたがり過ぎてるのかもしれないけれど……。

たぶん、花散里は印象薄めではあるけど朧月夜の対抗馬として読むのが対比的には面白いんでしょうね。肉体的な鮮やかで華々しい愛と、形而上的な落ち着いた幽かな愛、みたいな対比はよくありますもんね。じゃ、私はこちらに300点で行きます。


あとこちらのアレンジで面白いと思ったのは、花散里は品がない訳じゃないし、生活の面倒を見て、お金を寄越して、というような柄じゃないのに、暮らしぶりに困窮感が漂ってしまっているので、繰り返しおねだりされてるように受け取られてしまう、というところです。

光源氏や六条御息所が鮮やかに世界を染め直してきたような和歌の力も、花散里だと生活臭が漏れだしてしまう。季節のことを詠んだ、読み手が詠み手ならキレイな和歌になるところも、花散里という文脈と結び付くと手当てを催促する文のように読まれてしまう。身分も名声も「ときめき」も無いと、和歌はそんなことになってしまう。和歌は言葉だけで詠むものではなかったのか! そんなことも思いました。なら、そんな女たちは息を殺して末摘花のように困窮に耐えるしかないのでしょうか? そんなのは嫌だ、と花散里はいつしか心に決めたのかもしれません。と、まあ、ここまで来ると妄想レベルですけども。


花散里は光源氏をなじらない。拒まないけど、生活の安定を求める。光源氏目線で語られれば、地味でそそらない女だから、ということになるでしょう。しかし「生活の安定を求めるが自分の夫として愛し合う関係はねだらない」というのは光源氏の後半生に現れる玉鬘や女三宮と同じです。だから、後半生になってモテなくなった訳じゃなくて、この頃からモテなさの片鱗が出てる、って読めなくもないのかも。

花散里が光源氏を求めないのは、キャラの格差による遠慮、という部分もあるんでしょうけど、麗景殿女御の妹として内裏にいた時分に、光源氏や他のイケメンたちのヤンチャな恋模様についての噂も耳に入っていて、男たちに接近しすぎることに恐怖感があったのかもしれないなあ。


身も心も蕩けるような恋愛の場面こそが最高の幸せだったり山場だったりするようだけど、長期戦の地道な救済活動にも携わってるんですよね。光源氏が理想の男だとして、愛の言葉の超絶技巧と、生活基盤の安定化と、どちらが求められてたのかなあ。

とりとめないので、今日はここまで。花散里、次回はキラキラしてるやつで、行きますか。


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