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命を火に焚べる女たち

少女歌劇レヴュースタァライトの舞台少女たちや、マクロスΔのワルキューレ。
私が好きな、歌って踊る(あるいは奪い合う)女たちである。

それから、歌って踊らないが、輪るピングドラムの荻野目苹果ちゃん。姉の桃果も。

彼女らは、作中に命を火に焚べる、あるいは燃やし尽くすし、焚べても再生産されて帰ってくることもある。
なんにせよ、命を燃やす女だ。

舞台少女は走り続ける為に、女の子としての普通の幸せや過去の自分を燃やし尽くす。
ワルキューレは命懸けで歌い、フレイアは言葉通りの意味で命を燃やし尽くした。
それから、荻野目姉妹は救いたいモノの為に、命を蠍の炎に捧げた。

自分の欲、夢、あるいは愛など、そういうものの為に命を燃やす姿は美しい。
これは人によると思うけど、これは「頑張っている人を応援したい」みたいな清らかな気持ちではなく、「打ち上がっては落ちる花火は綺麗だなあ」みたいな感覚に近い。
完全に燃えてる女を鑑賞するのが好きらしいということである。真っ当に個人的な性癖。

「萌え」ならぬ「燃え」である。
(上手いことは言ってない)


ああやって、燃えて灰になって、また生き返ったり、死んでしまったりする女たちって、なんであんなに美しいと感じるのだろう。
イメージとしては、命の蝋燭が溶けていくような感覚。それを見ている。
実際の物語上の彼女らはもっとスピード感があるのだけれども。

何故男じゃなくて女なのかは、単純に趣味だ。
別に男でも命を燃やす人間は美しいが、女の方が見ていて気持ちがいいというだけである。
あくまでオタクの個人的な性癖の話をしているのだ。

正直、なんでそういうものに惹かれてしまうのか、はっきりとした答えはわからない。
自分に無いものだからかもしれないし、桜を眺める日本人の気持ちと同じかもしれない。

ただ思うのは、火に焚べた命、あるいは魂は、間違いなく「キラめいている」ということ。
再生産する舞台少女や、寿命よりも歌を選ぶフレイア、運命の乗り換えを選択する荻野目姉妹を見ていると、「本当に彼女らはそこにいるのだなぁ」、みたいな存在感を確かに感じてしまうし、キャラクターに熱とか厚みを感じる。
そういう、根拠のない立体感を見つけると、私というオタクは馬鹿みたいに興奮してしまうのである。


余談だけれど、私自身も「命を燃やしている」と感じた時期があった。
物語ほどの尊さはないし、他人と比べると甘いかもしれないが、あの時も、今の自分にはない充実感があった。時間もお金も熱も全部捧げていた。
自分が選択したもの、本当に欲しいものの為に足掻き、命の繋がりに空白や隙間がない幸福な時間。
そういう渦中にいる人間は、多分誰もが生と死を同時に味わっているんじゃないかと思っている。

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