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震災伝承も語り部も、行政によってつくられるものではない。

私は東日本大震災を経験した者として、あのときの教訓を生かし「新たな被災地をつくらないように」と、伝承活動を行っている。

先ほど、とある岩手県の語り部の方から情報を共有していただき、以下の報道を視聴したのだが、その内容に違和感を通り越した怒りを覚えた。

動画も残っているため、ぜひご視聴いただきたい。


岩手県大槌町の地域おこし協力隊員が、語り部として震災伝承活動を行った。その際の語りの内容が「誤解を生じさせうるもの」として、大槌町(行政)から指摘があったという内容だ。

この報道では、『「語る」ことの難しさ』とその一連の問題をまとめているが、語り部の未熟さは大きな問題ではない。
そもそも語りには、何一つ同じものはない。同じ人間による語りでも、その時期、時間、季節、場所、天候、立場、機会、様々な条件に影響され変化が生じる。だからこそ、誰かに届く。

ましてや、震災伝承。その人の体験やかかわり、距離、様々なめぐり合わせによって見方が変わるような事象を自分の言葉にしていかなければならない。それは言語情報の伝達にとどまらない。ときに、うまく伝えられないことによって伝わることもある。語り部が語れないこと・語らないことにも意味があり、聞き手はその〈隙間〉から様々な情報を受け取る。
混沌とした被災地の中で、誰かが触れた情報にははっきりとした輪郭が有るとは限らない。震災後から少しずつ明らかになってきた情報もあれば、修正された情報もあるだろう。まだ明らかになっていないことも多い。

大槌町の隣りにある釜石市で起きたことは、当初「釜石の奇跡」とメディアに称賛された。釜石市(行政)もその表現を用いていたが、現在は「釜石の軌跡」という表現が使用されている。
その裏には、鵜住居小学校で子どもたちを守るために命を落とした事務職員とその旦那さんらによる行政・教育委員会・学校などとの闘いの日々があったはず。綺麗事ではまとめることができない事実がそこにはあった。
行政といえど、常に”正しさ”をもっているとは限らないのだ。

だからこそ、一人ひとりの語りには価値と可能性がある。そして、その成熟度を他者が評価できるはずがないのだ。
しかし、今回の報道を見ると、大槌町(行政)は、語り部による本来多様であるはずの語りを管理という名のもとに監視・矯正しようとしているようだ。これこそが、「語ることの難しさ」という言葉では誤魔化せないほどに、大きな問題となっている。

釜石市の事例もそうだが、行政による解釈が変わる可能性だってある。大槌庁舎の震災遺構化をめぐる様々な議論の中にも、簡単にまとめることができないような多様な思いと一人ひとりの正義があったはずだ。
語りは、たった一つの解釈で方向づけられるものではない。ましてや管理などできるはずもない。

そして、語り部は行政の広報媒体でもなければ、なんでも命令を聞くロボットでもない。
だからこそ、一人ひとりの語りには、その人なりの〈正しさ〉がある。その人にしか見えていなかった事実がある。その人にしか感じ取れなかった空気がある。

多様な語りがなくなれば、その人が確かに触れた事実がかき消されてしまいうだろう。誰かにとって都合の良い事実に書き換えられてしまうかもしれない。
行政という権力を用いてそのようなことを行ってはならないし、それを許してはならない。

釜石市にある伝承施設「いのちをつなぐ未来館」を訪れた際、地域の方がふらっと訪れて震災当時の話をしていくということを聞いた。見た者に幸運をもたらすと言われる座敷童子のようだと、そのときのスタッフは形容していたが、その方の大切な記憶を他者に開いてくれる立派な語り部である。
私はこれがとても素敵に感じた。様々な人が自分にしかない経験を語りとして重ねていく。それぞれの被災経験が少しずつ異なるからこそ、その語りの重なりによって豊かになっていく。
いのちをつなぐとは、そういうことなのではないか。

語り部育成として、語りを矯正することにどれほどまで価値があるのだろうか。語りは、語る人がいて、その人の想いと人生があって成立する営みである。語る人の人格を無視し、行政の〈正しさ〉を押し付けるような語りに、未来を築く力などないだろう。

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